穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

短編の翻訳は読めるか

2010-05-13 18:52:36 | 社会・経済

最近キングのシャイニングを再読した。しきりにポーの赤死病に言及している。前に読んだ時には気にならなかったが今回はポーを読んでみる気になった。

たしか前に岩波で読んだが本棚にない。そこで数年前に買った英文で読んでみたが確かにゴシック小説の傑作だね。今日、本屋をぶらついていたら新潮文庫にも翻訳がある。立ち読みだから冒頭、結末夫々一ページほどながしたんだが、あまり原文を読んだ時に感じた迫るものがない。まあまあの翻訳だとは思うが。

それで思い当たったのだが、短編はその文章の結晶度が当然に高いわけで翻訳はなかなか難しいのだろうということ。森鴎外みたいに原作より数段優れた翻訳になることもあるが之は例外だ。

この前読んだ新潮文庫のジョイスのダブリナーの翻訳はひどい。英語的には問題がないのかもしれないが日本語としてなっていない。本人はジョイスの雰囲気を出そうとしたらしいが、とんちんかんなものに仕上がっている。これは原文が手元にないのでちくま文庫の翻訳を買ってあらためて読み比べた。

結論からいうと、ちくま文庫の翻訳は新潮よりはるかにいい。日本語のセンスの有無もあるが、短編の翻訳は訳者によって大きな差が出る。

話は飛ぶが、ハードボイルドでも言えるかな。チャンドラーやハメットの短編の翻訳も水っぽいのが多いのは同じことなのかもしれない。