穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第X(6)章 わたしは青空が嫌いだ

2016-08-01 07:51:00 | 反復と忘却

(今後カテゴリー「小説のようなもの」を「反復と忘却」に変更します。) 

親父は百歳に垂んとする長寿を全うして生涯を終えた。最後まで精神ははっきりとしていた。もっともそうと断言する根拠はないのである。なにしろほとんど会話のない親子であったから、ぼけていったかどうかはハッキリとわからない。黙っている限り立ち居振る舞いには全く変化は感じられなかった。従って「言動」のうち、「動」にはまったく痴呆は感じられなかったのである。肺炎で死んだのである。老衰という感じはまったく無かった。

さて大おやじのあとの空虚はブラックホールが出来たような物で大渦にしばらくは翻弄されたが、それが収まると家族がまったく違って見えて来たのは不思議だった。また世界政治の話を持ち出して大げさで恐縮であるが、独裁者チトー大統領が死亡した後のユーゴスラビアのような混乱状態になったのである。ここで諸君は言うだろう。これは私的なメモだろう、まるで講演でもしているみたいだぜ、と。そうなのである、これは私的なメモである、ただ少しでも格調高く書くには仮想読者を想定した方がいいかなと考えたのである。なにしろこちらは書くことでは初心者であるから。 

ま、コソボ紛争やボスニア・ヘルツェゴビナの内戦でも起きそうな気配が漂ったのである。そこはそれ、みな良識があるからボヤは広がらなかった。とにかく親父という重しが取れると皆本性が現れてくるというか、予想しない言動にあっけにとられることも多かった。

どこかで、だれか、たしか詩人だったと思うが、「私は青空が嫌いだ」と書いていたのを読んだ記憶がある。昼間は太陽が出ているから星がまったく見えない。太陽が沈んだ夜は星がはっきりと見えてくるというのである。昼でも天穹には無数の星がある。青空が広がっているから見えないだけなのである。 

この詩人の言葉を思い出した。親父という太陽が沈むと、いままで見えなかったことが沢山見えて来たのである。あるいはこの言葉を思い出したのはそのころ外房に旅行した時の体験に誘発されたのかもしれない。鴨川に泊まった日の明け方であった。どういう訳か深夜に目が醒めてしまった。そう言う時のために旅行の時には文庫本を持参する。寝付けない時はそう言う本を10頁ほども読めばまた、眠くなるのである。ところがその夜はますます目が冴えて来た。

ふと思いついて海岸を散歩しようと外に出た。海の上は星が無数に輝いている。まるで部屋の天井にぶら下がっている照明のように手が届くような気がした。そのときに詩人の言葉を思い出したのである。気障に聞こえるかも知れないが空が話しかけてくるような気がした。前にも書いたかも知れないが、私の親戚でソクラテスのように空と会話する人間がいた。その人は後に新興宗教の教祖になったのである。私にもそういう気がすこしあるのかも知れない。

 


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