穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

擬態としてのカントの悪文

2016-03-12 09:11:16 | カント

ドイツはフランスには遅れていたとはいえ、啓蒙の時代であり、フランス革命前後の激動期である。当時の思想家、使嗾家は非常に用心深かった。匿名で著書、パンフレットを出版する人が多かった。ヘーゲル(カントより少し時代がくだるが)にも匿名出版がある。カントも匿名出版をしている。

悪文は検閲当局の眼をくらますために、韜晦していた擬態であった可能性がある。カントは若い時からこう言う配慮をしていたのであろう。それがほとんど習慣となり、文体となっていたに相違ない。

扱う題材でそれほど擬態に隠れなくても良いものもある。純粋理性批判のテーマはそれほど用心しなくても良い。それでも物自体は汎神論に繋がりかねずキリスト教会から攻撃のおそれもあった。

若くて、体力知力がみなぎっていて悪文に細工しながらもよく読めば首尾一貫していて、論理的な文章がかける。

また、執筆に十分に準備期間があれば「悪文」の推敲も可能である。

純粋理性批判:出版年は1781年である。カントは1770年代にはほとんど著作を発表していない。世にカント沈黙の十年といわれる。すでに1772年には純粋理性批判の構想は具体的に煮詰まっていたという。出版は1780年であるから優に十年間の執筆の余裕があった。

実践理性批判:出版は1788年

判断力批判:1790年出版 

この二書は倫理道徳(政治思想につながる)、宗教をテーマとしている。キリスト教会や政府との関係が微妙になる。より悪文に韜晦しなければならない。

加うるに、体力(当然に知力も)の衰えがある。カントの体調は判断力批判出版の前年当たりから衰えたといわれる。

そして、純粋理性批判に比べて準備期間が非常に短い。実践理性批判にいつから取りかかった不明だが、判断力批判にいたっては体力の衰えが始まったなかで全部をそれにあてていたとしても二年しかない。

「悪文」をスタイリッシュに仕上げる余裕はまったくなかったであろう。

ところで、判断力批判の日本語訳が何種類かあるが、訳し方がまちまちで、意味不明な所が多いとこのシリーズの始めに書いた。英訳の事情はどうかとしらべたかったが、純粋理性批判の英訳は手に入るが判断力批判はない。そこでこの間図書館に古い新聞のフォトコピーを調べる仕事があったのでついでに探してみた。

ありましたね。英訳の場合は所謂定訳というのがあるようで、純粋理性批判では19世紀後半の訳者の物をベースにしている。すなわち

1855年 J.M.D.Meiklejohn

1881年 Max Muller

である。たとえば、

Translated,edited,and with an Intorduction  by Marcus Weight

Based on the translation by Max Muller

それに比べると日本の事情はてんでんばらばらにその時々に各者が訳しているようである。

判断力批判では

1911年 J.C.Meredith のものである。これでも100年以上前のものだ。

Translated by James Creed Meredith

Revised,edited,and introduced by  Nicholas Walker

これを見ると、カントの日本語訳を読むのが怖くなる。

おっと、もうひとつ。メレディスの判断力批判を読んでみたがやはり分かりにくい。ということは原文が文章として未整理という当ブログの推測が当たっているらしい。

カントが判断力批判以後執筆して公刊しようとした論文数点が当局の発禁処分を食らっている。カントが老齢で韜晦の技術がおとろえたのと、フランス革命の反動でドイツでも王侯貴族の旧体制が反撃を始め締め付けが強化されてきたからだろう。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カントの主題による様々な変奏曲 | トップ | カント「判断力批判」の書き... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

カント」カテゴリの最新記事