穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「マルタの鷹」黄色考

2015-05-17 06:32:18 | ハードボイルド

カポーティの「ティファニーで朝食を」では散々「mean reds」に悩まされた。村上春樹氏は簡単に「いやったらしいアカ」とすまして訳していたが、これじゃ同義反復で不得要領である。主人公の一人であり、ナレイター役の「僕」はangstのことか、と聞き返している。不安感とでもいうのか、実存主義かぶれ達が好んで使った言葉らしい。この辺の考察は以前にアップしたことがある。

さて、マルタの鷹に「きいろ、黄色」という単語が頻出するのだが、これがわからない。もっぱらスペードに関して出てくる。目の描写や顔色の描写として、である。スペードの内面を外形的に描写するつもりなのだろうが、これは一考を要する問題である。

色で情緒、気分、感情を表すことがある。ブルーなんてのは当代の若者でも使う。憂鬱な、というほどの意味である。その伝(デン)でいくと「きいろ」というのは卑怯とか臆病という意味になる。スペードもそういう気分になることもあろうが、どうもそれではスジが通らない。

例えば九章の最後の段落はスペードのアパートでいよいよブリジッドと性交する(村上、桐野流表現)場面であるが、His eyes burned yellowly. とある。

スペードがびくびくして、おっかなびっくり彼女にのしかかる、とは取りにくい。かれは「金髪の悪魔(第一章)」だから目が金色に怪しく光るのか。たしかにひとつの解釈かも知れない。しかし、これでは少年少女向けの劇画になってしまう。 

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