穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ハイデガーの「投企」について

2016-06-10 07:55:07 | ハイデッガー

翻訳者は訳語にお化粧をしてはいけない、大原則である。そうした方が、とおりがよくなるから、とか、もっともらしくなるから、というので言語の意味に厚化粧をさせてはならない。翻訳者の良心でしょう。同時に日本語の基本的なセンスがなければならない。読者を戸惑わせ、不快感をあたえるように造語を作ってはならない。 

さて、「投企」であるが、これはH氏の基本概念中の基本である。ひところの「実存主義」青年の合い言葉でもあったらしい。妙な言葉だが、「投」と「企」を無理矢理くっつけたものらしい。

この世界に投げ出されたんだから、今更くよくよしてもしょうがない、自分で努力して主体的に人生を切り開け、というような意味と理解しているが理解が浅いかな。

「投」は投げ出されて、を縮めたものらしい。「企」は企てる、計画を立てる、のつもりか。ハイデガー語ではEntwurfとかentwerfenというらしい。例によって独和辞典を見ると、Entwurfは設計図とある。entwerfenは下絵を描く、とある。つまりトウキ(こんな単語は変換出来ないから以後カタカナでいく)の後ろのキにかろうじて連なる意味しかない。トウをつけるのは訳者の余計なお化粧である。どういう神経だろう。親切のつもりか。あるいはH氏の思想から言えば「世界に投げ出されて途方に暮れているな、積極的に自分の人生を企画せよ」という含意があるよ、と親切に教えているのか。

そんなことは訳者の仕事ではない。Hの前後の文脈でそういう意味(なんだろう)にとれるなら、その作業は読者がするものである。H氏の文章の売りは奇異感である。しかも意図的な。だったら、言語の通りに訳さないとH氏の文体が生きてこないではないか。

例のマコーリとロビンスンの英訳を見るとprojectやprojectionを当てている。これらの語は計画とか企画という意味が一般的でドイツ語のオリジナルに比較的忠実である(つまりキに焦点をあてている)。もっとも英語のprojectionには発射という意味もあり、この世に発射されて、に引っ掛けているとも取れる。すくなくともこなれた日常語であるプロジェクトを訳語にしている点でも英訳の方が数段すぐれている。

まだまだ沢山あるがきりがないので今日はこれまで。

 

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