穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

推理小説はまず結末の15頁を読め

2016-03-20 09:07:34 | カント

このブログは小説と哲学書の書評という看板を掲げている。小説ばかり扱っていたのでカントの判断力批判を取り上げたら、これがもう十回以上になるかな、続いた。まだ終わりそうもない。それでは小説ファンには申し訳ないので小説にも哲学書にも共通する話題はないかな、と今回は工夫しました。 

10歳やそこらの子供ではない。推理小説を始めから読んでどんな結末かな、なんてわくわくどきどきするのも馬鹿馬鹿しいはなしだ。結末を読んておいて、そこまで作者がどう持って行くかなとその腕を見るのが私の読み方である。

もっとも、作者が文を遣る流れに乗って心地よくシリアルに読める作家も稀にはいる。レイモンド・チャンドラーなんかね。

さて哲学書の場合であるが、99パーセントの場合最初から読む必要はない。最初から読んでも悪くないが、読書の興が乗ってこなければ、適当に拾い読みすればよろしい。どんな学問でも基本的な概念の定義がはっきりしないといけないが、哲学書の場合、最初に明晰な定義の提示がある場合は少ない。つまり最初から読む必要はないわけである。

ウィトゲンシュタインの一部の書、たとえば論理哲学論考やスピノザのエチカは定義、論証というスタイルだから最初から読んでもよろしい。それでも、論理哲学論考は途中から拾い読みしても結構面白い。

たしかヘーゲルがどこかで書いているが、哲学書はウロボロスの環であると。全部読んで初めて定義や主張が分かるという訳だ。円環なら山手線と同じだからどこから乗っても同じことだ。頭が尻尾を咥えている。

前回判断力批判のポジション・レポートを5パーセントと書いたが、従ってこれもシリアル・リーディングではなく、ランダム・アクセスでその見当ということである。