古代日本仏教への否定的見解:家永三郎氏の場合

2020年02月11日 | 歴史教育

 かつて、進歩的知識人の代表のような印象のあった歴史学者家永三郎氏の古代仏教への否定的見解は、若い頃、筆者も大きな影響を受けたものの一つです。

 以下、長めの引用の結論部分を先にあげておきます。

 「「鎮護国家」とは、具体的には、奴隷制的支配を内容とする律令支配機構を呪術的に「護持」するという意味であり、一切の身分階級を否定し、すべての人間がみな成仏できるという確信から出発した仏教の本来の立場を完全に裏切るスローガンとされても弁解の余地がない」というのです。徹底的な酷評です。

 「律令制」はひたすら奴隷制的支配なのか、呪術は近代人にとってはともかく古代の日本人にとっても、否定的意味しかなかったのか、「護国」という言葉がはっきりある『仁王般若経』や『金光明経』は仏教の経典であるにもかかわらず、「仏教本来の立場を完全に裏切るスローガン」を掲げていると言えるのか、それらの主張には根本的に疑問、というより反論のあるところです。

 仏教の本来の立場を完全に裏切る飛鳥・白鳳・天平の仏教が、世界に誇りうる日本文化の粋ともいうべきすばらしい仏教芸術を生み出したのはなぜか、家永氏は「今日まだ学問的に完全な解答のなされていない歴史の秘密に属している」、つまりナゾだと言っていますが(『日本文化史 第二版』岩波新書、一九八二年、七〇頁)、偽りの思想が怪我の功名で美しいものを生み出すなどということがありうるのでしょうか。筆者はありえないと考えます。

 そうした反論を、まず、15日の東京土曜講座で、詳しく述べるつもりです。

 後日、本ブログでも一定程度書くつもりですが、できるだけ多くの積極的関心のある方に、ぜひ講座に参加して、ご一緒に考えていただきたいと思います。

 それは、日本人のアイデンティティの確立を可能にする、右-左の対立を超えた普遍性のある基礎があるのかないのか、という問題に関わるからです。

 

 「仏教が百済から伝来したときに、日本人はこれを「異国の神」として理解した。今日でも仏教徒と称する多数の日本人のしていることがそうであるように、六、七世紀の日本人は、仏教を呪術として受けとったのである。その点で民族宗教の機能と本質的にかわるところがあったとは思われない。

 現に仏教が輸入されてから後も、民族宗教との間に信仰の衝突をひき起した形跡がないばかりか、七、八世紀の記録をみると、たとえば病気の平癒とか天災地変の消除とかの祈願が、神社と寺院とに双頭的にささげられている例がすこぶる多いのであって、神社信仰と仏教信仰とは平行してなんら他をさまたげていない事実が確かめられるのである。

 ということは、現世の禍福を呪術の力をもって処理しようと望む呪術的欲求が共通の主体となって、それが一方で神社への祈願、他方で仏寺への祈願となってあらわれるにすぎなかったためであり、要するに、仏教が民族宗教と本質的にかわらない呪術的儀礼として受けとられていたからであった。

 仏教は最初は蘇我氏ら豪族の間で私的に信仰せられるにとどまったが、大化の改新の前後のころから、朝廷から公的な信仰を受けることとなり、舒明天皇はその皇居とならべて百済大寺を造り、天武天皇は百済大寺を移して大官大寺の造営をはじめ、また薬師寺を建て、さらに諸国に命じて公の行事として金光明経を読諦させるなど、政府が仏教興隆のために全力をそそぐにいたった。

 朝廷の仏教興隆政策は、聖武天皇のときに絶頂に達し、七四一(天平十三)年には国ごとに金光明最勝王護国之寺すなわち国分寺を建立することを命じ、ついで平城京に五尺三寸の盧舎那大仏の造営をはじめ、これを本尊とする壮大な東大寺を建立し、天皇みずから大仏の前にひれふして「三宝の奴」と称するなど、熱狂の域にいたっているのである。

 このような朝廷の積極的な仏教信仰が、律令国家の安寧を呪術的に保障しようとする要求に出たものであることは、もっぱら護国の功徳を説いた金光明経(およびその新訳の金光明最勝王経)がもっとも尊重された一事をみても明らかである。この時代における朝廷の仏教興隆への異様なまでの熱情は、まったく「鎮護国家」の期待を仏教にかけた結果にほかならなかった。

 したがって、病気の平癒その他の個人的な祈願も付随的に生じていないわけでもなかったけれど、仏教本来の使命である正覚(正しい悟りをひらくこと)の道は顧慮せられるところがなかったのである。

 長い間、国家権力に卑屈な態度をとってきた後世の教団は、あたかも「鎮護国家」を日本仏教の誇るべき特色であるかのごとく説いていたけれど、「鎮護国家」などということは、個人が正道を修めて成仏することを教えの根本とする仏教の教義とはまったく縁のない、権力への迎合以外の何ものでもなかったことを知らねばならない。

 ましてその「鎮護」せらるべき「国家」とは、「ミカド」と訓読せられているところからも察せられるように、もっぱら政治権力の掌握者としての君主またはその政府を指していたのであるから、「鎮護国家」とは、具体的には、奴隷制的支配を内容とする律令支配機構を呪術的に「護持」するという意味であり、一切の身分階級を否定し、すべての人間がみな成仏できるという確信から出発した仏教の本来の立場を完全に裏切るスローガンとされても弁解の余地がないのである。」

    (『日本文化史 第二版』五四-五六頁、読みやすくするために筆者が改行を加えた。)

 


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