般若経典、広く言えば大乗仏教のエッセンスは「智慧(=般若)と慈悲」にある、と筆者は捉えています。
もちろん単なる筆者の解釈ではなく、経典に典拠があります。それをもっとも端的に表現しているのが次の、『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)の句でしょう。
スブーティよ、菩薩・大士は二つのことを成し遂げるので、悪魔も〔それらを〕破壊することはできない。何を二つのことと言うか。一切の存在が空であることを洞察することと、一切の生きとし生けるものを捨てないということである。スブーティよ、菩薩はこの二つのことを成し遂げるので、悪魔も破壊することはできない。
須菩提、菩薩摩訶薩は二法を成就すれば、魔、壊すこと能はず。何等か二なる。一切法空なるを観ずると、一切衆生を捨てざるとなり。須菩提、菩薩は此の二法を成 就すれば、魔、壊すこと能はざるなり。(度空品第六十五)
「一切法空なるを観ず」が智慧=般若、「一切衆生を捨てざる」が慈悲に当たります。この二つのことを究極的には一つのこととして実践するのが、菩薩・大士です。
「菩薩」とはボーディサットヴァ・菩提=覚りを求める人という意味であり、「大士」とはマハーサットヴァ、自分だけの覚りではなくすべての人の覚り・救いを求める志の大きな人という意味です。
智慧を得て(菩提=覚り)苦しみの生存の廻り(輪廻)から解放され(解脱)、究極の安らぎ(涅槃)に到ることは自分の利益・自利です。
そして生きとし生けるものすべてをも、覚り、苦しみからの解放、究極の安らぎに到らせたいと思い行動することは利他です。
その両方を同時に一つのこととして追求する「自利・利他」が大乗の修行者・菩薩の目指すところです。「自利利他円満」「自利利他一如」という言葉で表現されます。
大乗仏教は、そういう自分だけでなくすべての人と共に覚り・救いを求めていく大きな乗り物である菩薩・大士の仏教なのです。
単に「個人の魂の救いを得る」ことを求めるのは、目的ではないどころか、むしろ小乗として批判・否定されています。
つまり、前に挙げた井上清氏や家永三郎氏など多くの近代主義的・進歩主義的な戦後知識人の理解(あえて言えば誤解)と異なり、大乗仏教は個人の内面のことも問題にしてはいますが、それだけを問題にしているのではない、と筆者には思われます。
『八千頌般若経』の中に、智慧と慈悲に関して非常に要領よく述べた言葉があります。(中公文庫『大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ』、一七六―七頁)
……菩薩大士とは難行の行者である。空性の道を追求し、空性によって時をすごし、空性の精神集中にはいりながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士 は最高の難行の行者である。それはなぜか。……菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにいかない からである。彼には「私あらゆる有情を解放しなければならない」という性質の諸誓願があるのである。
菩薩・大士は、空・如を追求します。とことん追求し空・如と一体化してしまうと、あとはもうやらなければならないことは何もなくなり、解脱・涅槃に入るだけということになってしまいそうのですが、その手前のところで「いや、解脱・涅槃はやめよう。慈悲で行こう」と。空の覚りを、その手前ギリギリまで徹底的に目指す。しかし最後の最後のところで、入りきってしまわず戻ってくる。だから最高の難行といわれるわけです。
「有情」は、サンスクリット語で「サットヴァ」といい、「衆生」とも訳されます。「誓って必ずこれを実現しよう」という願いを誓願といいますが、まさにその諸々の誓願に生きるのが菩薩・大士あるいは菩薩・摩訶薩なのです。
これは日本の思想一般における「志に生きる」という言葉と言い換えてもいいと思います。
しかしその内容は非常に明確で、一切衆生・生きとし生けるものすべてを救おうという大きな志があって、そのためにはあれもしようこれもしよう、できるあらゆる手段を尽くそう、というのです。
長くなるので、次の記事にしようと思いますが、そのあらゆる手段のなかには「仏国土の建設」も含まれていて、単に個人の内面・魂の救いだけがテーマになっているのではないことは明確だと思われます。
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