年末、年始は、紅白、行く年来る年、年の初めはさだまさしを見たり、箱根駅伝を見たり、かみさんの実家に帰って95歳になる義母と過ごしたり……とごくふつうにやっていました。
その合間に、「いよいよもう間もなく60歳、還暦になるが、平均寿命くらいは生かしてもらうとして、残された人生の有限な時間の中で、どうしてもやっておきたいことは何なのか、できればやりたいことは何なのか、まあできてもできなくてもどちらでもいいことは何なのか、優先順位を決めなければならないな」などと考えながら、実家の倉庫に預けていた40箱以上の「そのうち読みたい」と思って溜め込んでいた本の整理を始めました。
優先的に読むつもりのもの、研究所の資料として後に残してもいいもの、古本屋に売ってもいいもの、捨てるしかないものなどに分類するつもりですが、まず今回は、8箱分だけ選んでミーティングルームに送りました。
特筆すべきことは、去年、『摩訶般若波羅蜜経』が思いがけず面白かったので、引き続いて『大般若経』に挑戦してみようかという気になり、積み上げた箱の山の中から探し出して送ったことです。
『大般若経』はなんと全600巻という般若経系統の経典群の大全集で、日本でも古来重んじられ、多くの寺院に置いてあり、正月などには『大般若会(だいはんにゃえ)』というなかなか素敵な儀式も行なわれるのですが(折本の経典をぱらぱらと繰って読んだことにして、年に一度の風入れにもするという「転読(てんどく)」を見たことのある方もいることでしょう)、全部を読んだ人はあまりいないという代物で、私も買ってはあっても一生読むことはないだろうなと思っていました(和綴じの国訳大蔵経版)。
ところが、読みたくなったのです。
その内容を一言で言えば、「一切空」とか「諸法空相」でも済んでしまうもののようです(先学によれば)。
転読の際に使われる回向文(えこうもん)でも、
「諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう、すべての存在は直接間接の関係によって生ずる)。
因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう、関係によって生じるのでそれ自体の変わることのない本性はない)。
無自性故無去来(むじしょうこむこらい、本性がないので去るとか来るということもない)。
無去来故無所得(むこらいこむしょとく、去ることも来ることもないものを〔実体的に〕把握することはできない)。
無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)把握できないので結局は空というほかない)。
畢竟空故是名般若波羅蜜(ひっきょうくうこぜみょうはんにゃはらみつ、結局空なのでこれを般若波羅蜜――分別知でない智慧という完成の行――と名づける)。
南無一切三宝(なむいっさいさんぼう、すべての仏・法・僧という宝に帰依します)、無量広大(むりょうこうだい、量り知れず広大な)、発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい、この上なく等しいもののない覚りを得たいという心を起こします)」
という程度で済むことのようです。
でありながら、語るとなると600巻も長々と語ることもできるわけですが、それはどんなことになっているのか、確かめてみたくなったのです。
これもまた、マスト化するつもりはありません。他の仕事の合間に、興味がずっと続いたら読んでいくつもりです。
長くて長くてなかなか終わらない、なかなか終わらないということは楽しみがなかなか終わらないということで、そこがいいという、大長編小説に取り掛かる時のような、ちょっとわくわくするような気分です。
長いお経を読もうとするのにわくわくするなんて、変わってると思う人もいるでしょうね。
しかし、そうなんです。今年も仏教の楽しい学びが続きそうです。
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昨年はいろいろなご指導を頂きましてありがとうございました。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
私は「無自性故無去来」という教えに惹かれます。
これは、所謂「空の場」(西谷先生の言葉)における「もの」ごとの生成流転という営みであるのだと私は解釈します。しかし、そのことがどうしてもイメージとして湧いてこないのです。『宗教とは何か』の中で西谷先生は「自己は自己ではない(無我である)、故に自己である」と言われますが、このことについても直観としては理解できるのですが、それをどのようにイメージすればよいのかということになりますと、なかなかハッキリしたものとして浮かんできません。
大きな湖の湖面と中間層と湖底と谷水を「心の世界」として描いて見たりするのですが、中々納得できません。
私は、もう一度岡野先生の著書「よくわかる般若心経」を読んでみようと考えています。
今後ともなにとぞよろしくお願いします。
乱文にて失礼しました。お許しください。
今年もよろしく、ブログ授業にご参加下さい。ご一緒に学びを深めていきましょう。
「空」のイメージについてですが、2005年10月8日の「自己は自己でないものによって自己である」のところ(http://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/s/%BC%AB%B8%CA%A4%CF%BC%AB%B8%CA%A4%C7%A4%CA%A4%A4%A4%E2%A4%CE%A4%CB%A4%E8%A4%C3%A4%C6%BC%AB%B8%CA%A4%C7%A4%A2%A4%EB)が、ご参考になるかもしれません。
よろしければ、ご覧下さい。
先生は途方もないことをお考えになりますね・・・汗
一瞬言葉を失いました(笑)
でも実際、経典の中身はどうなっているんでしょうね?
延々と「一切空」が述べられていると言うことですが。。。
確かに興味はあります。
転読で読んだことというのもいいでしょうが、やはり真読に勝るものはないのでしょうね。
この目標はさすがにご一緒できそうもありませんが、私も問題意識をもって仏教の学びを頑張ります!