言葉を止めると心は爽やか

2006年10月18日 | 心の教育






 最近、鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』を、少しずつ読んでいます。

 昨日読んだところにあった句が、実に深く的確だなあと思いました。

 「シャーリプトラよ、ただ言葉があるので菩提(覚り)だというのである。ただ言葉があるので菩薩だという。……〔しかし〕言葉は、直接的原因と間接的原因が結びついて作られたものにすぎず、ただ分別し想定して仮に名前で呼ぶだけのことである。そういうわけで、菩薩・大士は、般若波羅蜜を実践する時、一切の言葉を見ることをしない。見ないので、執着することもないのである。」(私訳)

 覚りを求めている人=菩薩が、深い智慧=般若波羅蜜の修行を実践する時には、心の中で言葉がめぐり、分別知が働くことを、徹底的に休止させていきます。

 その場合、自分が「覚り」を求めているとか、自分は菩薩だとかいうことさえも忘れてしまうのです。

 「覚りたい」とか「すぐれた菩薩になりたい」という願い・欲求さえも、もはや心から消えていきます。

 言葉によって対象を分別・想定しなければ、願ったり執着したりしようもないからです。

 言葉の働きが休止すると、執着して悩んでいた心も休止し、静かに、爽やかになっていきます。

 私も、坐禅をしている間は、いささかそういう気分になれるようになりました。

 別に自慢するほどのことではないのですが、ともかく坐禅をするとその時だけでも確実に爽やかないい気分になれるので、みなさんにお勧めしたくなる(慣れるまで少し足が痛かったりしますが)というだけのことです。

 よかったら、あなたも坐禅をしてみませんか。



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