昨日に続いて、『逝きし世の面影』の「第三章 簡素と豊かさ」から引用・紹介をします。
日本が地上の楽園などであるはずがなく、にもかかわらず人びとに幸福と満足の感情があらわれていたとすれば、その根拠はどこに求められるのだろうか。当時の欧米人の著述のうちで私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活のゆたかさについての証言である。そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食住に関するゆたかさであって、幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこまれて来た私たちは、両者間に存するあまりの落差にしばし茫然たらざるをえない。一八五六(安政三)年八月日本に着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れ次のような印象を持った。
「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。 彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。むろんハリスはこの村がゆたかだと言っているのではない。それは貧しい、にもかかわらず不潔ではないと言っているだけだ。しかし彼の観察は日を追うて深まる。次にあげるのは十月二十三日の日記の一節である。「五マイルばかり散歩をした。ここの田園は大変美しい。いくつかの険しい火山堆があるが、できるかぎりの場所が全部段畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。これらの段畑中の或るものをつくるために、除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある」。十月二十七日には十マイル歩き、「日本人の忍耐強い勤労」とその成果に対して、新たな讃嘆をおぼえた。翌二十八日には須崎村を訪れて次のように記す。「神社や人家や菜園を上に構えている多数の石段から判断するに、非常に古い土地柄である。これに用いられた労働の総量は実に大きい。しかもそれは全部、五百か六百の人口しかない村でなされたのである」。ハリスが認知したのは、幾世代にもわたる営々たる労働の成果を、現前する風景として沈澱させ集積せしめたひとつの文化の持続である。むろんその持続を可能ならしめたのは、このときおよそ二百三十年を経ていたいわゆる幕藩体制にほかならない。
彼は下田の地に、有名な『日本誌』の著者ケンペル(一六五一~一七一六)が記述しているような花園が見当たらぬことに気づいていた。そしてその理由を、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ」と考えていた。ところがこの記述のあとに、彼は瞠目に値する数行をつけ加えずにおれなかったのである。「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当りもよくて気持がよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」。これは一八五六年十一月の記述であるが、翌五七年六月、下田の南西方面に足を踏みこんだときにも、彼はこう書いている。「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を一人も見ていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい。彼らが十分に食べていないと想像することはいささかもできない」。
ハリスはこのような記述を通して何を言おうとしたのか。下田周辺の住民は、社会階層として富裕な層に属しておらず、概して貧しいということがまず第一である。しかしこの貧民は、貧に付き物の悲惨な兆候をいささかも示しておらず、衣食住の点で世界の同階層と比較すれば、最も満足すべき状態にある――これがハリスの陳述の第二の、そして瞠目すべき要点だった。ちなみに、ハリスは貿易商としてインド、東南アジア、中国を六年にわたって経めぐって来た人である。
プロシャ商人リュードルフはハリスより一年早く下田へ来航したのであるが、近郊の田園について次のように述べている。「郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」。彼は下田に半年しか滞在しなかったのだから、美事な稲田の耕作者たちが領主階級の収奪を受けていないかどうかという点にまで、観察を行き届かせたわけではない。だが彼の記述はハリスのそれの信憑性に対する有力な傍証であるだろう。もし住民が悲惨な状態を呈しているのなら、地上のパラダイスなどという形容が口をついて出るはずがない。
おなじ安政年間の長崎については、カッテンディーケの証言がある。彼の長崎滞在は安政四年から六年にわたっており、その間、鹿児島、対馬、平戸、下関、福岡の各地を訪れている。彼はいう。「この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が何よりの証拠である。百姓も日傭い労働者も、皆十分な衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では申し分のないものを摂っている」。この観察もハリスの陳述をほぼ裏書きするものといってよかろう。すなわちここでも、日本の民衆は衣と食の二点で十分みたされているものと見なされているのだ。……
オールコックは一八五九(安政六)年日本に着任したが、神奈川近郊の農村で「破損している小屋や農家」をほとんど見受けなかった。これは彼の前任地、すなわち「あらゆる物が朽ちつつある中国」とくらべて、快い対照であるように感じられた。男女は秋ともなれば「十分かつ心地よげに」衣類を着ていた。「住民のあいだには、ぜいたくにふけるとか富を誇示するような余裕はほとんどないにしても、飢餓や窮乏の徴候は見うけられない」というのが、彼の当座の判定だった。これはほとんどハリスとおなじ性質の観察といってよい。
しかし一八六〇(万延元)年九月、富士登山の折に日本の農村地帯をくわしく実見するに及んで、オールコックの観察はほとんど感嘆に変った。小田原から箱根に至る道路は「他に比類のないほど美し」く、両側の田畑は稔りで輝いていた。「いかなる国にとっても繁栄の物質的な要素の面での望ましい目録に記入されている」ような、「肥沃な土壌とよい気候と勤勉な国民」がここに在った。登山の帰路は伊豆地方を通った。肥沃な土地、多種多様な農作物、松林に覆われた山々、小さな居心地のよさそうな村落。韮山の代官江川太郎左衛門の邸宅を通り過ぎたとき、彼は「自分自身の所在地や借家人とともに生活を営むのが好きな、イングランドの富裕な地主とおなじような生活がここにあると思った」。波打つ稲田、煙草や綿の畑、カレーで味つけするととてもうまいナスビ、ハスのような葉の水分の多いサトイモ、そしてサツマイモ。「立派な赤い実をつけた柿の木や金色の実をつけた柑橘類の木が村々の周囲に群をなしてはえている」。百フィート(約三十メートル)以上の立派な杉林に囲まれた小さな村。一本の杉の周囲を計ると十六フィート三インチ(約五メートル)あった。山峡をつらぬく堤防は桃色のアジサイで輝き、高度が増すにつれて優雅なイトシャジンの花畑がひろがる。山岳地帯のただ中で「突如として百軒ばかりの閑静な美しい村」に出会う。オールコックは書く。「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し陣吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切って、非常なゆたかさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見ていると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるをえなかった」。
熱海に彼はしばらく滞在した。「これほど原始的で容易に満足する住民」は初めて見たと彼は思った。……「村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、どこから見ても十分に幸福な生活を営んでいる」のだと彼は思った。……たしかに「そこにおいては封建領主がすべてであって、下層の労働者階級はとるに足らぬものである」。しかし現実に彼の眼に映るのは「平和とゆたかさと外見上の満足」であり、さらには「イギリスの田園にけっして負けないほど、非常に完全かつ慎重に耕され手入れされている田園と、いたるところにいっそうの風致をそなえている森林」である。ケンペルは二世紀も前に、「彼らの国は専制君主に統治され、諸外国とのすべての通商と交通を禁止されているが、現在のように幸福だったことは一度もなかった」と述べているが、結局彼は正しかったのではないか。この国は「成文化されない法律と無責任な支配者によって奇妙に統治されている」にもかかわらず、「その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の面で非常に幸福」なのだ。次の一節はこの問題に関する彼の省察の結語といっていい。「とにかく、公開の弁論も控訴も情状酌量すら認めないで、盗みに対しても殺人に対するのとおなじように確実に人の首をはねてしまうような、荒つぽくてきびしい司法行政を有するこれらの領域の専制的政治組織の原因と結果との関連性がどうあろうとも、他方では、この火山の多い国土からエデンの園をつくり出し、他の世界との交わりを一切断ち切ったまま、独力の国内産業によって、三千万と推定される住民が着々と物質的繁栄を増進させてきている。とすれば、このような結果が可能であるところの住民を、あるいは彼らが従っている制度を、全面的に非難するようなことはおよそ不可能である」。
タイトルがみごとに言い当てているように、幕末、明治初期の日本は簡素で豊かな国だったようです。
けっして贅沢ではないけれども悲惨な貧困ではなく、庶民は「簡素」と表現できるようなつましく堅実で、そして清潔で美しさを感じられる生活をしていたというのです。
「封建制=圧制と貧困の悪の体制」という印象で教えられてきたことは、いったいなんだったのでしょう。
著者の渡辺氏も言っておられるように、もちろんこの時代にダークサイドがなかったというのではありません。
しかし総体として、きわめて明るい面をもっており、その面を見るかぎり「恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」とまで絶賛されるような「美しい国」だったようです。
幕末-戦前-敗戦-70年代という歴史的プロセスを経て、こうした日本が次第に失われつつあり、いまや絶滅寸前の危機にある、というのが私の見方です
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