今日のことば 17: 剣をとる者は

2008年08月15日 | 歴史教育

 終戦・敗戦の記念日です。

 すでに書きましたが、自分が直接体験したのではないにもかかわらず、まるで体験したかのように感じていて、原爆、戦争は私の思想的探究の原点です。

 ですから、今日は改めて原点を確認する日です。

 特に次の新約聖書・マタイによる福音書第26章52節を読み直しました。


  剣をとる者はみな、剣で滅びる。

 
 長い歴史のインターバルで見れば、これは確実です(ゲームの理論でも証明されているようですが)。

 なのに、依然として多くのリーダーはこの警告を聞こうとしません、きわめて残念ながら。

 キリスト教国アメリカの首長でさえ。

 そして、まれな例外がプロテスタント・キリスト教の国スウェーデンであったことに、改めて驚きと敬意を感じています。

 ちなみに、ポツダム宣言の受諾は、スウェーデン、スイスを通じて連合国側に伝えられたのだそうです。



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聖徳太子の寺

2008年06月14日 | 歴史教育

昨日は、姫路で天台宗の布教師研修会で「縁起の心を現代に伝える」という講演をしました。

奇遇にも、もう一人の講師が聖徳太子ゆかりの鶴林寺のご住職でした。

ご挨拶をし、『聖徳太子「十七条憲法」を読む』を差し上げました。

後でわかったのですが、もう一つのゆかりの寺、斑鳩寺のご住職も来ておられました。

残念ながらすれ違いで、ご挨拶、名刺交換はできませんでしたが、今日、お寺にお参りして名刺を置いてきました。

本を書く時点では、お参りできなかった2つのお寺にお参りすることができ、ご住職とのご縁もいただけて、有難いことでした。

どちらにも、聖徳太子のお寺らしい雰囲気があって、いいお寺でした。

機会があれば、また来たいと思いました。

薄く曇った夕焼け空を見ながら、新幹線で帰路です。

(写真は斑鳩寺の三重の塔)
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南淵先生の墓

2008年04月18日 | 歴史教育




                   法隆寺・夢殿の桜



 少し前の話ですが……春休みはほとんど休みにならず、大学が始まったらまたさらに忙しいので、なんとか無理に暇を作って、4月5日から8日まで、京都・奈良に取材6割観光4割の旅行に行ってきました。

 2月のスウェーデン・フィンランド視察の後、「スウェーデン・フィンランドはすばらしい! それでも、やっぱり移住しようとは思わない。日本にとどまって、日本を緑の福祉国家にしたい」のはなぜだろう、と自分の心のうちを探っていました。

 そうしているうちに、どうしても京都・奈良に行きたくなった、というのも一つの理由です。

 特に、前から一度お参りしたいと思っていた、飛鳥の石舞台のさらに奥、稲淵にある南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の墓を訪ねてみようと思ったのです。

 請安は、聖徳太子の命を受けて、608年小野妹子に従って隋に留学した学問僧で、隋滅亡後も唐に留まって32年間も学び、太子の亡くなったはるか後640年に帰国した学問僧ですが、やがて事情があって中央政府から身を引いたようで、飛鳥の奥の小さな山村に引きこもって小さな塾をしていたといわれています。

 若き日の中大兄皇子や藤原鎌足や蘇我入鹿がその塾に通って、儒学やとりわけ唐の律令制について学んだと伝えられています。

 後に大化の改新で倒す側と倒される側に分かれる三人は、若き日には学友であったのです。

 馬を並べることのできるほどの道はなかったようですから、三人はのどかな田園風景の中、小さな山道を後先になって一列で請安先生の塾に通ったこともあったでしょう。

 しかし、行き帰り、中大兄皇子と鎌足が二人だけになった時には、蘇我氏打倒の策を練っていたとも伝えられています。

 そうしたエピソードにも歴史のドラマを感じるのですが、それだけでなく、山里の小さな塾で若き日の彼らが学んだことがやがて日本の古代律令国家の成立につながっていったということに、自分が今やっていることを重ねてしまうのです。

 ヴィジョンは、最初の学びはごくささやかなところでなされたとしても、それが一つの国のシステムとして実現された時、大きな出来事になります。

 律令国家における「班田収受」は、取り方によって「人民の支配と搾取のシステムの完成」と読めないこともありませんが、むしろ「日本国民と生まれれば、働きさえすれば食べていける――なにしろ男女を問わず生まれたらかなりの面積の田んぼをもらえるのですから――ある意味での福祉国家の成立」と解釈することもできます。

 私は、聖徳太子「十七条憲法」における「和の国」の理想をあるレベルで実現した、少なくとも実現を目指したのが律令国家だ、と解釈しています(これは事実かどうかというより、歴史という〈物語〉の解釈としてということですが)。

 明治維新前の松下村塾ももちろんですが、むしろ南淵請安のささやかな草葺(だったでしょう)の私塾にこそ、日本の国家理想の一つの原点があるのではないか、という思い入れがあったのです。

 訪ねてみると、村の中央の小さな丘の上、一本の大きな桜の木の下に、小さな祠があり、その横手にささやかな「南淵先生之墓」がありました。








 千数百年ひっそりと、しかし今も集落の人々によって大切に守り続けられているようでした。





 帰り道、「日本の棚田100選」にも選ばれているという稲淵の美しい棚田の菜の花を見ながら、妻と二人、「こういう奥ゆかしいところがいいねえ」と話したことです。





 いろいろ問題が山積しており、欠点も多い日本という国を、なぜ好きなのか。

 それは、親と同じく母国は選べないという理由だけでなく、日本の文化と自然のこうした奥ゆかしい美しさへの愛着なのだな、と改めて確認する旅でした。

 美しかった日本を、もう一度、もっと美しい国にしたい!



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平和と調和の国・実現への希望と意欲

2008年01月24日 | 歴史教育

 ふうふう言いながら、「十七条憲法の意味」のレポートに取り組んでいます。

 でも、多くの学生たちの反応に感動しています。

 そして、彼らの証言どおり、小中高でこうした国家理想について教えられなかった(今もおそらくほとんど教えられていない)ことに、怒りに近い残念さをあらためて感じています。

 よかったら、彼らの感想とそして「十七条憲法」の原文そのものを読んでみて下さい。


 今回の授業で、聖徳太子の十七条憲法を初めて読みました。第一条だけ、小学校のときにやった記憶があったのですが、あとの十六条は、まったく初めてでした。しかもその意味を理解して、聖徳太子って実はすごい人だったことを知りました。私の中の聖徳太子は、一度に七人ぐらいの人の話をいっぺんに聞けたとか、すこし嘘っぽい人だと思っていたのでびっくりしました。
 私は、この「現代社会と宗教」の授業を受けて、少しずつ、日本人としての誇りをもてるようになったかなという気がします。
 日本の文化は好きでしたが、その文化といっても外国の人が思いつく様なきものや、神社、お寺、奈良・京都ぐらいのイメージでしかなかったのが、その根底にあった「仏教」という教えに触れることができて、「日本の文化ってこういう教えを軸にしてできてきたのか」ということこがわかりました。私は、仏教をまったく全然知らなかったので、実は、日本の文化もなにもしらなかったということに気づかされました。
 最近は「愛国心」とか「国際化」という言葉をよく耳にしますが、実は、そう言っている人たちも、「日本の文化」その根本的な教えである「仏教」を正しく理解していいないのではないかと思います。「日本の文化はすばらしい」とか「日本には古き良き伝統がある」とか言葉で口にしていても、何がどうすばらしいのか、どんな教えが古き良き教えなのか、初めてしっかりとした答えを教えてもらいました。
 私は、今の日本が何か不安でちゅうぶらりんな感じがするのは、わかった様に上辺だけで「日本」を語っていて、根本的な「日本」「日本人」を誰もが理解していなかったから、ではないかなぁと思います。
 この授業を受けて、日本が大好きになりました。やっぱり「日本はすごかったんだ」と実感しました。だから、私は、今の日本もこれからの日本も好きなままでいたいです。この日本の大切な「教え」をもう一度しっかり理解することができれば、本当の意味で日本はすばらしい国になると思います。
 それにしても「和をもって貴しとなす」という言葉は、胸にひびきました。
                                       (社会政策学科1年女)


 高校の倫理の授業で聖徳太子の「十七条憲法」について学んだときに、第三条は天皇絶対主義の考えだと誤った解釈をしていました。また、「三宝を敬え」など仏教の思想や実践方法を多く十七条憲法に取り入れているので、聖徳太子は仏教絶対主義の考えの人だと思っていました。しかし、今回の授業で聖徳太子が唯識や仏教の思想を深く理解していて、足りない部分は他の宗教(儒教など)で補ったりしながら、日本をより平和で調和のとれた国にしようとしていたことが分かりました。私達は、これからの社会を支える人間として太子の目指した理想を正しく理解し、実践していくことが大切だと思いました。1年間、この授業を通して、生きていく中で必要なことを新たに気付かされたり、これまでの世界観が大きく変わることを色々教えていただきました。ありがとうございました。
                                       (社会学科1年女)


 私の小中高で一番好きで得意科目としていたのが日本史である。しかし、授業の中で教師が教えてくれた聖徳太子は本当にいたかどうかも分からないような人物であり、十七条の憲法も出来事の1つとしてしか伝えてくれなかった。内容についても資料集に小さく載っているだけだった。聖徳太子の掲げた国家理想などこの授業を受けなければ知らずのままだったと思う。
 後期1回目のレポートで唯識について考えた時にこんなにも遥か遠くにあるような思想を導きだした人は素晴らしいと感じたが、聖徳太子はこの高みにある思想を人々に広めようとした。誰もがたどり着くことができるわけではない無住処涅槃をこんなにも丁寧に優しく伝え、理想とした。こんなにも素晴らしい人間が存在したかもしれない、存在しなくてもこの思想は存在した。私は日本を今までと違う新たな見方ができるようになったと思う。
 聖徳太子の理想は現在でも現実のものにはなっていないけれど、私たち世界に必要な在り方はこれだと思う。1人1人がこの理想を持つことができれば、十七条の憲法の1条にあるように上も下も和らいで睦まじければ実現できないことは何もないのである。
 そのことを教えていただきありがとうございました。
                                       (メディア社会学科1年女)


 「十七条憲法」を初めて読んで、“これは理想だなー、だけどこんなこと本当に実践できるわけはない”と思ったのが正直な感想でした。条文内でも言われていたように、この憲法は「人間に極悪なものはいない」のを信じて作られているように思えますが、今の世の中を見ていたらそんなことは到底信じようがありません。しかし、だからこそ今、原点に帰って足元を見つめ直すことが必要なんだという気持ちがわいてきたのも確かです。高い理想を掲げ、そこに向かって歩き出す人がいるからこそ、その後をついて来る人がいるのです。変われる人から、気付いた人から始めるのが大切であり、それがやがて大きな力となって世界は変わるかもしれない。そんな風に思いました。聖徳太子はまさにその先駆け的存在だったのではないでしょうか。時代は変わり、人も変わり、世界も変わりましたが、それは立ち位置が違うだけ。最高の山の頂は一つで、今も昔も目指すべきは変わらない。内容に感心するよりも、実現への希望と意欲を感じずにはいられませんでした。
                                       (メディア社会学科1年男)


 引用したのはごく一部ですが、もっともっとたくさん引用したいものがあります。

 今年度、特徴的なのは、レポートの最後に「ありがとうございました」と書いてくれる学生が非常に多いことです。

 これは大切なものがしっかりと伝わった証拠かな、と素直に喜んでいます。



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十七条憲法第十七条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十七に曰く、それ事はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。かならずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。ゆえに衆と相弁(あいわきま)うるときは、辞(こと)すなわ理(り)を得(え)ん。


第十七条 そもそも事は独断で決めるべきではない。かならず、皆と一緒に議論すべきである。小さな事は軽いので、かならずしも皆と相談する必要はない。ただ大きな事を議論するに当たっては、あるいは過失がありはしないかと疑われる。それゆえに皆と互いに是非を検証し合えば、その命題が理にかなうであろう。



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十七条憲法第十六条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十六に曰く、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ゆえに、冬の月に間(いとま)あらば、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節なり。民を使うべからず。それ農(なりわい)せずば、何をか食らわん。桑(くわと)らずば何をか服(き)ん。

第十六条 人民を使うに時期を選ぶのは、古来のよいしきたりである。それゆえ、冬の月に暇があるようなら、民を使うべきである。春から秋に到るまでは、農繁期である。民を使ってはならない。いったい農耕しなかったならば、何を食べるのであろうか。養蚕しなければ何を着るのであろうか。


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十七条憲法第十五条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十五に曰く、私(わたくし)を背きて公(おおやけに向(ゆ)くは、これ臣の道なり。おおよそ人、私あるときはかならず恨みあり。憾(うら)みあるときはかならず同(ととのお)らず。同らざるときは私をもって公を妨ぐ。憾み起こるときは制に違(たが)い、法を害(やぶ)る。ゆえに初めの章に云う、上下和諧せよ、と。それまたこの情(こころ)か。

第十五条 私利・私欲に背を向け公の利益に向かうことこそ、貴族・官吏の道である。おおよそ人に私心があるときにはかならず人を恨むものであり、恨みを抱けば共同できない。共同しなければ、私心で公務を妨げることになる。恨みが起これば、制度に違犯し、法を侵害することになる。それゆえに最初の章で、上下和らぎ協力せよ、と言ったのである。それもまた、この趣旨を述べたのである。


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十七条憲法第十四条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十四に曰く、群臣百寮(ぐんけいひゃくりょう)、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉(うらや)むときは、人またわれを嫉む。嫉妬の患(うれ)え、その極(きわまり)を知らず。このゆえに、智おのれに勝るときは悦ばず、才おのれに優るときは嫉妬(ねた)む。ここをもって五百歳にしていまし今賢に遇(あ)うとも、千載(せんざい)にしてひとりの聖を待つこと難し(かた)。それ賢聖を得ずば、何をもってか国を治めん。

第十四条 もろもろの官吏は、嫉妬があってはならない。自分が妬めば、人もまた自分を妬む。嫉妬のもたらす災いは限界がない。それゆえに、〔人の〕知恵が自分より勝っていると喜ばず、才能が自分より優れていると嫉妬する。そういうわけで、五百年たってようやく今現われた賢者に出遭うことも、千年に一人の聖人を待つこともできない。〔だが〕賢者・聖人が得られなければ、何によって国を治めることができるというのだろうか。


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十七条憲法第十三条

2008年01月03日 | 歴史教育

十三に曰く、もろもろの官に任ぜる者、同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使して、事を闕(おこた)ることあらん。しかれども知ることを得る日には、和(あまな)うことむかしより識(し)れるがごとくにせよ。それ与(あずか)り聞かずということをもって、公務(こうむ)をな妨げそ。

第十三条 もろもろの官職に任命された者は、お互いに職務内容を知り合うようにせよ。あるいは病気になったり、あるいは出張して、仕事ができないことがあるだろう。しかし〔復帰して〕職務内容を知ることができたら、協力して以前からずっと了解し合っていたとおりにせよ。自分が参加せず話を聞いていないからといって、公務を妨げることのないようにせよ。


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十七条憲法第十二条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十二に曰く、国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なし。民に両主なし。率土(そつど)の兆民は王をもって主となす。所任の官司はみなこれ王民なり。何ぞあえて公(おおやけ)と、百姓に賦斂(おさめと)らん。

第十二条 もろもろの地方長官は、民たちから〔勝手に〕税を取り立ててはならない。国に二君はなく、民に二人の君主はいない。国すべての多数の民は天皇を君主とする。任命された官吏はみな天皇の民である。公的な税の他に私的な税を取り立てることが許されるはずはない。


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十七条憲法第十一条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十一に曰く、功過(こうか)を明らか(あきらか)に察(み)て、賞罰はかならず当てよ。このごろ賞は功においてせず、罰は罪(つみ)においてせず。事を執る群卿(ぐんけい)、賞罰を明らかにすべし。

第十一条 功績と過失を明らかに観察して、賞罰をかならず正当なものにせよ。最近は、功績に賞を与えず、罪に罰を与えないことがある。政務を執る官吏たちは、賞罰を明快にすべきである。


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十七条憲法第十条

2008年01月03日 | 歴史教育

*記事を書く時間がなかなか取れないので、まず条文の残りと現代語訳を掲載して、折を見ながら解説を書き加えていこうと思います。


十に曰く、こころの忿(いか)りを絶ち、おもての瞋(いか)りを棄てて、人の違(たが)うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とする。われ是とすれば、かれは非とす。われはかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理、詎(たれ)かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

第十条 心の中の怒りを絶ち、表情に出る怒りを捨て、人が逆らっても激怒してはならない。人にはみなそれぞれの心がある。その心にはおのおのこだわるところがある。彼が正しいと考えることを、私はまちがっていると考え、私が正しいと考えることを、彼はまちがっていると考える。私がかならずしも聖者であるわけではなく、彼が愚者であるわけではない。どちらも共に凡夫にすぎないのである。正しいかまちがっているかの道理を、誰が〔絶対的に〕判定できるだろうか。お互いに賢者であり愚者であるのは、金の輪にどこという端がないようなものである。このゆえに、他人が〔自分に対して〕怒っても、むしろ自分のほうに過失がないか反省せよ。自分一人が真理をつかんでいても、多くの人に従って同じように行動せよ。


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平和と調和の国へ:聖徳太子・十七条憲法 他 目次

2007年12月19日 | 歴史教育

*聖徳太子『十七条憲法』関連の記事の目次です。記事はまだ完結していませんが、大学の授業との関連で、できたところまで掲載することにしました。時間をなんとか作って、続けて書いていきたいと思っています。

『十七条憲法』の授業
日本の精神性の原点
緑の福祉国家と聖徳太子の理想
菩薩の目標は平等社会

アレルギーが治りつつある

平和と調和という国家理想:十七条憲法第一条
曲がった心を正す方法:十七条憲法第二条
本当のリーダーとは:十七条憲法第三条
リーダーが規範を示す:十七条憲法第四条
リーダーの役割としての公正な裁判:十七条憲法第五条
勧善懲悪という当たり前のこと:十七条憲法第六条
賢者による政治:十七条憲法第七条
民のために働き続ける覚悟:十七条憲法第八条
誠実さがすべての根本である:十七条憲法第九条

*以下はまだ記事が書けていませんので、条文と現代語訳のみです。

十七条憲法第十条
十七条憲法第十一条
十七条憲法第十二条
十七条憲法第十三条
十七条憲法第十四条
十七条憲法第十五条
十七条憲法第十六条
十七条憲法第十七条


美しかった日本
簡素で豊かだった日本
和の国日本の実現
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和の国日本の実現

2007年10月06日 | 歴史教育

 引き続き、『逝きし世の面影』「第四章 親和と礼節」から引用・紹介させていただきます。


……江戸社会の重要特質のひとつは人びとの生活の開放性にあった。外国人たちはまず日本の庶民の家屋がまったくあけっぴろげであるのに、度肝を抜かれた。オールコックはいう。「すべての店の表は開けっ放しになっていて、なかが見え、うしろにはかならず小さな庭があり、それに、家人たちは座ったまま働いたり、遊んだり、手でどんな仕事をしているかということ朝食・昼寝・そのあとの行水・女の家事・はだかの子供たちの遊戯・男の商取り引きや手細工などがなんでも見える」。……

 家屋があけっぴろげというのは、生活が近隣に対して隠さず開放されているということだ。したがって近隣には強い親和と連帯が生じた。家屋が開放されているだけではなく、庶民の生活は通路の上や井戸・洗い場のまわりで営まれた。子どもが家の中にいるのは食事と寝るときで、道路が彼らの遊び場だった。フォールズが述べている。「日本人の生活の大部分は街頭で過され、従ってそこで一番よく観察される。昔気質の日本人が思い出して溜息をつくよき時代にあっては、今日ふさわしいと思われるよりずっと多くの家内の出来ごとが公衆の目にさらされていた。……家屋は暑い季節には屋根から床まで開け放たれており……夜は障子がぴったりと引かれるが、深刻な悲劇や腹の皮のよじれる喜劇が演じられるのが、本人たちは気づいていないけれど、影に映って見えるのである」。……

 開放されているのは家屋だけではなかった。人びとの心もまた開放されていたのである。客は見知らぬものであっても歓迎された。ルドルフ・リンダウは横浜近郊の村、金沢の宿屋に一泊したとき、入江の向い側の二階家にあかあかと灯がともり、三味線や琴で賑わっているのに気づいた。何か祝い事をやっているのだろうと想像した彼は、様子を見たく思ってその家を訪ねた。「この家の人々は私の思いがけぬ訪問に初めは大層驚いた様子であったし、不安を感じていたとさえ思えた。だが、この家で奏でられる音楽をもっと近くから聞くために入江の向うからやって来たのだと説明すると、彼らは微笑を漏らし始め、ようこそ来られたと挨拶した」。二階には四組の夫婦と二人の子ども、それに四人の芸者がいた。リンダウは、歓迎され酒食をもてなされ、一時間以上この「日本人の楽しい集い」に同席した。彼らは異邦人にびくびくする様子はなく、素朴に好奇心をあらわして、リンダウの箸使いの不器用さを楽しんだ。そして帰途はわざわざリンダウを宿屋まで送り届けたのである。これは文久二(一八六二)年の出来ごとであった。

 通商条約締結の任を帯びて一八六六(慶応二)年来日したイタリア海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨン(一八三〇~九七)も、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」と感じた一人だが、彼が「日本人の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」と記しているのは留意に値する。つまり彼は、江戸峙代の庶民の生活を満ち足りたものにしているのは、ある共同体に所属することによってもたらされる相互扶助であると言っているのだ。その相互扶助は慣行化され制度化されている面もあったが、より実質的には、開放された生活形態がもたらす近隣との強い親和にこそその基礎があったのではなかろうか。

 開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった。われわれは江戸時代において、ふつうの町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。しかしこの戸締りをしないというのは、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。ましてや農村で戸締りをする家はなかった。アーサー・クロウは明治十四年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村にはひと気がない。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。住民が鍵もかけず、何らの防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている」。……

 平和で争いのない人びとはまた、観察者によれば礼譲と優雅にみちた気品ある民であった。ボーヴォワルは、立ち寄った商店の女がお茶と煙草をすすめる仕草に感心し、「庶民の一婦人のこの優雅さ」からすれば、「われわれを野蛮入扱いする権利」をたしかに日本人に認めないわけにはいかないと感じた。街ゆく人びとは「誰彼となく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口もとにほほえみを絶やさない」。田園をゆけば、茶屋の娘も田圃の中の農夫もすれちがう旅人も、みな心から挨拶の言葉をかけてくれる。「その住民すべての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか。……地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ」。……

 しかし画家ラファージ(一八三五~一九一〇)は、日本人の礼節に「自由の感情」あるいは「民主的と呼んでよさそうなもの」を感じた。これはチェンバレンの感じたことに非常に近い。だが、〝封建制〟あるいは身分制度の一表現でもあるはずの丁重な礼儀作法が、ある種の自由や自立に通じるという逆説には、ここでは深入りを避けよう。それよりも問題として重要なのは、観察者に深いおどろきを与えた日本人の礼儀正しさが、彼らがこぞって認めた当時の人びとの特性、無邪気で明朗、人がよく親切という特性のまさに要めに位置する徳目だということだ。その点を明瞭に認識したのはエドウィン・アーノルドである。

 「都会や駅や村や田舎道で、あなたがたの国のふつうの人びとと接してみて、私がどんなに微妙なよろこびを感じたか、とてもうまく言い表わせません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗練された立ち振舞いを教えられずにはいなかったのです。また、ほんとうの善意からほとばしり、あらゆる道徳訓を超えているあの心のデリカシーに、教えを受けずにはいられませんでした」。東京クラブでこう語ったとき、アーノルドは日本人の礼儀正しさの本質をすでに見抜いていたのだった。

 彼によるとそれは、この世を住みやすいものにするための社会的合意だったのである。「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである」。「この国以外世界のどこに、気持よく過すためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心――この国以外のどこにこのようなものが存在するというのか」。「生きていることをあらゆる者にとってできるかぎり快いものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱いているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣をも含意している」。

 いまこそわれわれは彼が次のように述べた訳が理解できるだろう。「国民についていうなら、『この国はわが魂のよろこびだ』という高潔なフランシスコ・シャヴィエルの感触と私は一致するし、今後も常にそうであるだろう。都会や町や村のあらゆる階層の日本人のあいだですごした時ほど、私の日々が幸福かつ静澄で、生き生きとしていたことはない」。アーノルドは一八八九年(明治二十二)年十一月に来日し、麻布に家を借りて娘と住み、九一年一月に日本を離れた。彼は九七年に日本人女性と結婚したそうだが、日本讃美者にありがちな幻滅が晩年の彼を襲ったかどうか私は知らない。しかしそれはどうだって構わないことだ。私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持のよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表われていたのは、故なきことではなかったのである。


 ぜひご紹介したいので、長い長い引用になりました。

 この本に教えられて私も著者と共に、「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持のよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表われていたのは、故なきことではなかったのである。」と言いたくなりました。

 江戸末期、日本は聖徳太子以来の国家理想「和の国日本」を相当なレベルで実現していたように思えます。



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簡素で豊かだった日本

2007年10月05日 | 歴史教育

 昨日に続いて、『逝きし世の面影』の「第三章 簡素と豊かさ」から引用・紹介をします。


 日本が地上の楽園などであるはずがなく、にもかかわらず人びとに幸福と満足の感情があらわれていたとすれば、その根拠はどこに求められるのだろうか。当時の欧米人の著述のうちで私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活のゆたかさについての証言である。そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食住に関するゆたかさであって、幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこまれて来た私たちは、両者間に存するあまりの落差にしばし茫然たらざるをえない。一八五六(安政三)年八月日本に着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れ次のような印象を持った。

 「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。 彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。むろんハリスはこの村がゆたかだと言っているのではない。それは貧しい、にもかかわらず不潔ではないと言っているだけだ。しかし彼の観察は日を追うて深まる。次にあげるのは十月二十三日の日記の一節である。「五マイルばかり散歩をした。ここの田園は大変美しい。いくつかの険しい火山堆があるが、できるかぎりの場所が全部段畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。これらの段畑中の或るものをつくるために、除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある」。十月二十七日には十マイル歩き、「日本人の忍耐強い勤労」とその成果に対して、新たな讃嘆をおぼえた。翌二十八日には須崎村を訪れて次のように記す。「神社や人家や菜園を上に構えている多数の石段から判断するに、非常に古い土地柄である。これに用いられた労働の総量は実に大きい。しかもそれは全部、五百か六百の人口しかない村でなされたのである」。ハリスが認知したのは、幾世代にもわたる営々たる労働の成果を、現前する風景として沈澱させ集積せしめたひとつの文化の持続である。むろんその持続を可能ならしめたのは、このときおよそ二百三十年を経ていたいわゆる幕藩体制にほかならない。

 彼は下田の地に、有名な『日本誌』の著者ケンペル(一六五一~一七一六)が記述しているような花園が見当たらぬことに気づいていた。そしてその理由を、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ」と考えていた。ところがこの記述のあとに、彼は瞠目に値する数行をつけ加えずにおれなかったのである。「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当りもよくて気持がよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」。これは一八五六年十一月の記述であるが、翌五七年六月、下田の南西方面に足を踏みこんだときにも、彼はこう書いている。「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を一人も見ていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい。彼らが十分に食べていないと想像することはいささかもできない」。

 ハリスはこのような記述を通して何を言おうとしたのか。下田周辺の住民は、社会階層として富裕な層に属しておらず、概して貧しいということがまず第一である。しかしこの貧民は、貧に付き物の悲惨な兆候をいささかも示しておらず、衣食住の点で世界の同階層と比較すれば、最も満足すべき状態にある――これがハリスの陳述の第二の、そして瞠目すべき要点だった。ちなみに、ハリスは貿易商としてインド、東南アジア、中国を六年にわたって経めぐって来た人である。

 プロシャ商人リュードルフはハリスより一年早く下田へ来航したのであるが、近郊の田園について次のように述べている。「郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」。彼は下田に半年しか滞在しなかったのだから、美事な稲田の耕作者たちが領主階級の収奪を受けていないかどうかという点にまで、観察を行き届かせたわけではない。だが彼の記述はハリスのそれの信憑性に対する有力な傍証であるだろう。もし住民が悲惨な状態を呈しているのなら、地上のパラダイスなどという形容が口をついて出るはずがない。

 おなじ安政年間の長崎については、カッテンディーケの証言がある。彼の長崎滞在は安政四年から六年にわたっており、その間、鹿児島、対馬、平戸、下関、福岡の各地を訪れている。彼はいう。「この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が何よりの証拠である。百姓も日傭い労働者も、皆十分な衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では申し分のないものを摂っている」。この観察もハリスの陳述をほぼ裏書きするものといってよかろう。すなわちここでも、日本の民衆は衣と食の二点で十分みたされているものと見なされているのだ。……

 オールコックは一八五九(安政六)年日本に着任したが、神奈川近郊の農村で「破損している小屋や農家」をほとんど見受けなかった。これは彼の前任地、すなわち「あらゆる物が朽ちつつある中国」とくらべて、快い対照であるように感じられた。男女は秋ともなれば「十分かつ心地よげに」衣類を着ていた。「住民のあいだには、ぜいたくにふけるとか富を誇示するような余裕はほとんどないにしても、飢餓や窮乏の徴候は見うけられない」というのが、彼の当座の判定だった。これはほとんどハリスとおなじ性質の観察といってよい。

 しかし一八六〇(万延元)年九月、富士登山の折に日本の農村地帯をくわしく実見するに及んで、オールコックの観察はほとんど感嘆に変った。小田原から箱根に至る道路は「他に比類のないほど美し」く、両側の田畑は稔りで輝いていた。「いかなる国にとっても繁栄の物質的な要素の面での望ましい目録に記入されている」ような、「肥沃な土壌とよい気候と勤勉な国民」がここに在った。登山の帰路は伊豆地方を通った。肥沃な土地、多種多様な農作物、松林に覆われた山々、小さな居心地のよさそうな村落。韮山の代官江川太郎左衛門の邸宅を通り過ぎたとき、彼は「自分自身の所在地や借家人とともに生活を営むのが好きな、イングランドの富裕な地主とおなじような生活がここにあると思った」。波打つ稲田、煙草や綿の畑、カレーで味つけするととてもうまいナスビ、ハスのような葉の水分の多いサトイモ、そしてサツマイモ。「立派な赤い実をつけた柿の木や金色の実をつけた柑橘類の木が村々の周囲に群をなしてはえている」。百フィート(約三十メートル)以上の立派な杉林に囲まれた小さな村。一本の杉の周囲を計ると十六フィート三インチ(約五メートル)あった。山峡をつらぬく堤防は桃色のアジサイで輝き、高度が増すにつれて優雅なイトシャジンの花畑がひろがる。山岳地帯のただ中で「突如として百軒ばかりの閑静な美しい村」に出会う。オールコックは書く。「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し陣吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切って、非常なゆたかさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見ていると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるをえなかった」。

 熱海に彼はしばらく滞在した。「これほど原始的で容易に満足する住民」は初めて見たと彼は思った。……「村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、どこから見ても十分に幸福な生活を営んでいる」のだと彼は思った。……たしかに「そこにおいては封建領主がすべてであって、下層の労働者階級はとるに足らぬものである」。しかし現実に彼の眼に映るのは「平和とゆたかさと外見上の満足」であり、さらには「イギリスの田園にけっして負けないほど、非常に完全かつ慎重に耕され手入れされている田園と、いたるところにいっそうの風致をそなえている森林」である。ケンペルは二世紀も前に、「彼らの国は専制君主に統治され、諸外国とのすべての通商と交通を禁止されているが、現在のように幸福だったことは一度もなかった」と述べているが、結局彼は正しかったのではないか。この国は「成文化されない法律と無責任な支配者によって奇妙に統治されている」にもかかわらず、「その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の面で非常に幸福」なのだ。次の一節はこの問題に関する彼の省察の結語といっていい。「とにかく、公開の弁論も控訴も情状酌量すら認めないで、盗みに対しても殺人に対するのとおなじように確実に人の首をはねてしまうような、荒つぽくてきびしい司法行政を有するこれらの領域の専制的政治組織の原因と結果との関連性がどうあろうとも、他方では、この火山の多い国土からエデンの園をつくり出し、他の世界との交わりを一切断ち切ったまま、独力の国内産業によって、三千万と推定される住民が着々と物質的繁栄を増進させてきている。とすれば、このような結果が可能であるところの住民を、あるいは彼らが従っている制度を、全面的に非難するようなことはおよそ不可能である」。


 タイトルがみごとに言い当てているように、幕末、明治初期の日本は簡素で豊かな国だったようです。

 けっして贅沢ではないけれども悲惨な貧困ではなく、庶民は「簡素」と表現できるようなつましく堅実で、そして清潔で美しさを感じられる生活をしていたというのです。

 「封建制=圧制と貧困の悪の体制」という印象で教えられてきたことは、いったいなんだったのでしょう。

 著者の渡辺氏も言っておられるように、もちろんこの時代にダークサイドがなかったというのではありません。

 しかし総体として、きわめて明るい面をもっており、その面を見るかぎり「恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」とまで絶賛されるような「美しい国」だったようです。

 幕末-戦前-敗戦-70年代という歴史的プロセスを経て、こうした日本が次第に失われつつあり、いまや絶滅寸前の危機にある、というのが私の見方です



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