天武天皇と『仁王般若経』

2020年02月26日 | 歴史教育

 

 話を天武天皇に戻します。

 『日本書紀』によれば天武天皇は、天武五年(六七六)、『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』と『金光明経(こんこうみょうきょう』を諸国で講読させ、天武十四年(六八五)、宮中で『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』を講読させています。

 どれもが般若経系統の経典ですから、それはつまり天武は、理解度はどうであれ、ともかく般若経系統の経典を重んじたということです。

 まず『仁王般若経』の内容と天武天皇との関わりについて考えていきましょう。

 『仁王般若経』は、略して『仁王経』、詳しくは『仏説仁王般若波羅蜜経』あるいは『仁王問般若波羅蜜経』といい、四種類の漢訳があり二種類が現存していますが、古代日本では、鳩摩羅什訳がもっとも用いられました。

 「仁王」とは、民への仁・慈しみの心のある帝王という意味で、十六の国(釈尊当時のインドの主な国)の王たちが仏陀に徳のある王になって国を護るにはどうしたらいいかを質問して答えていただいた経というのが経題の意味です。

 中国で書かれた偽経ではないかという説もありますが、中国・朝鮮・日本では早い時期から、『金光明経』『法華経』と並んで「護国三部経」として尊重され、「仁王会(にんのうえ)」が開かれて盛んに講読されました。

 目次をあげると、序品(じょほん)第一、観空品(かんくうほん)第二、菩薩教化品(ぼさつきょうけほん)第三、二諦品(にたいほん)第四、護国品(ごこくほん)第五、散華品(さんげほん)第六、受持品(じゅじほん)第七、 嘱累品(しょくるいほん)第八の八巻・八章からなっています。

 以下、その内容のポイントを述べていきます。

 

 「序品」に「大いなる覚者世尊は、先にすでに私たち弟子たちのために、二十九年間、摩訶般若波羅蜜、金剛般若波羅蜜、天王問般若波羅、光讃般若波羅蜜を説いてくださっている。今日、如来は大光明を放って何事をしようとされるのだろう」とあるとおり、自ら般若経典群のなかでは後期のものであり、これまでの般若経典でまだ論じられていないこと――徳ある王となって国を護るにはどうあるべきか――があるからさらに語るのだと主張しています。

 

 そして、「観空品」では、仏陀は十六の国の王たちが「国土を護るための因縁(直接・間接の原因)」を問いたがっていることを見抜いたうえで、「その前にまず菩薩たちが、仏という結果を護る因縁と、菩薩の十段階を護る因縁を説く。よくよく聴いて、理解し、真理に沿った修行をするように」と答え、空について説いています。

 つまり、王が王として国土を護りたいのなら、菩薩としての修行をしなければならない、ということです。

 

 続いて、「菩薩教化品」では、すべての存在は縁によって成り立っており、仮に衆生を成り立たせている。自らがそうした空であり幻のような存在であることを覚った菩薩が、空であり幻のような存在である衆生を教化するのだ、説かれています。

 

 さらに、「二諦品」では、プラセナジット(波斯匿)王に対して、「大王よ、菩薩大士は、最高の真理において常に真の理解と世俗の理解を明らかに把握しながら、衆生を教化するのである。仏と衆生は一体であって二ではない。なぜならば、衆生は空であるので菩薩の空に同置することができ、菩薩は空であるので衆生の空に同置することができるからである」と説いており、仏と菩薩と衆生の一体平等性・一如がはっきりと語られています。

 

 そして「護国の経典」とされる元になったと思われる「護国品」では、驚くべきことに、「天地でさえ滅ぶのだから、どうして国が永遠で頼りになるものでありえよう」と国の無常・空が説かれ、しかもそのことを説いたこの経を尊重し唱えたり、講義をさせたりすることが、かえって国・国土を護ることになる、と説いています。

 

 それは、国に関しても、実体視して執着することによって過剰な欲望が生じ、それがすべての争い・災いの元になるのであり、まず菩薩として指導者が実体視―執着―貪欲を離れ、すべてが空・縁起・無自性・無常・無我・一如であることを学び覚って慈悲行を行ない、人々をもそのように教え導くことによってこそ、国が平和になり治まっていくのだ、という意味だと解釈していいでしょう。

 

 次の「散華品」では、一切が空・一如であることを壮大なヴィジョンで語っていて、『華厳経』に似ています。

 「その時、十六の大国の王は、仏が十万億の詩句をもって般若波羅蜜を説かれるのを聞き、限りなく歓喜した。そこで、十万億の花を撒いたところ、虚空のなかで変化して一つの座になった。全宇宙の仏たちが共にこの座に坐って般若波羅蜜を説かれた。無数の人々も共に一座に坐り、金色の花をもって釈迦牟尼仏の上に撒くと、万輪の花になって人々を覆い、また八万四千の般若波羅蜜の花を撒くと、虚空のなかで変化して白い雲の台になった。……その時、仏は王のために五つの不思議な神秘的現象を現わされた。一つの花を無数の花に入れ、無数の花を一つの花に入れ、一つの仏国土を無数の仏国土に入れ、無数の仏国土を一つの仏国土に入れ、 無数の仏国土を一つの毛穴にある国土に入れ、一つの毛穴の国土を無数の毛穴の国土に入れ、無数のシュメール山と無数の大海をケシ粒のなかに入れ、一人の仏の体を無数の衆生の体に入れ、無数の衆生の体を一つの仏の体に入れ、六道の体に入れ、地・水・火・空の体に入れられた。仏の体も不可思議であり、衆生の体も不可思議であり、世界も不可思議である。……」

 

 「受持品」では、プラセナジット王が仏陀に「般若波羅蜜は説くことができず、理解することもできず、〔ふつうの〕意識では認識もできないものです。善き男子たち(修行者)は、どうすればこの経典を明瞭に覚り、真理に沿って一切の衆生のために空の教えへの道を開けばいいのでしょうか」と問い、仏陀がいろいろな修行の仕方を説いた後で、「私が涅槃に入った後、真理の教えが滅びようとする時に当たって、この般若波羅蜜を受け保ち、大いに仏のことを行ないなさい。一切の国土が安全であり、すべての人々が幸福であれるのは、みな般若波羅蜜による。そこで、〔この経典を〕もろもろの国王に委託し、僧や尼僧、男信徒・女信徒には委託しないことにする。なぜかというと、王のような力がないからである。王のような力がないので、委託しない。あなたが、受け保ち、読誦し、この経典の教えを理解するように。……世界の国々に七つの災難があるだろう。すべての国王は、それらの災難があっても、般若波羅蜜を講読するならば、 七つの災難は滅し、七つの福が生じ、すべての人々は安楽になり、帝王は喜ぶだろう。……」 と困難な時代の到来の予言とそれへの対処の仕方を語っています。

 

 天武天皇との関係で特に重要なのが次の個所です。

 

 「大王よ、私が五つの眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)で過去・現在・未来の三つの世を明らかに見るところ、 一切の国王はみな過去に五百の仏に仕えることによって、帝王の主になることができるのである。それゆえに、一切の聖人・羅漢は、その国にやって来て大きな利益を与えるのである。もし王の福(徳)が尽きてしまった時になれば、一切の聖人はみな捨て去るだろう。もし一切の聖人が去った時には、七つの災難が必ず起こるだろう。大王よ、もし未来の世にもろもろの国王がいて三宝を護持するならば、私は五つの大きな力をもった菩薩を往かせて、その国を護らせるだろう。……」

 

 最後の「嘱累品第八」では、「仏の入滅後八十年、八百年、八千年に、三宝を信じるものがいなくなる時が来るだろう。その時にこそ『仁王般若経』を国王に託すが、経に説かれるとおりにしなければ、七つの難が生じ、民は苦しみ、正法は滅し、国も滅亡するだろう」という「破仏破国」の警告がなされています。

 

 さて、そうした内容のある『仁王般若経』(そして他の般若系統の経典)を、天武は、訳もわからず呪術的に有難がっただけなのでしょうか、それともわかって尊重したのでしょうか。

 天武は、そもそも推古天皇・聖徳太子-舒明天皇-天智天皇から律令国家の構想を引き継ぎ、律令を制定させ、『古事記』『日本書紀』の編纂を命じていますから、どう見てもただ粗野で無教養な武人ではなく、非常な教養人でもあったことが確実に推測できます。

 さらにいえば、当時の公文書や上流階級の教養の元になる文書はすべて漢文で書かれたものですから、天武は漢文が読めたはずで、だとしたら、経典の漢文だけは読めない・読まないということはほとんどありえないのではないでしょうか。

 そして、『仁王経』を重んじて、諸国で講読させたということは、自分も僧たちの講読・講義を聞いたことがあるはずですし、当然自分でも読んで理解できたはずで、読みもせず訳もわからず呪術的に「護国の経典」として信仰したのではなく、読んで、少なくともかなりの程度まで理解したうえで重んじたのだと解釈するほうが妥当ではないか、と筆者には思われます。


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