今日日食メガネを買いに梅田に出かけた。
先週土曜日に、ジュンク堂でも日食メガネを調べたが、千円以上の雑誌しかなかった。
数週間前に、大阪駅前のブックファーストで、安い日食メガネを手にとって見ていた。
そのことが頭にあったので、もし安い日食メガネが売り切れていても、千円以上のものならあるだろうと考えた。
梅田のブックファーストに行った。
二階の理工学書売り場の入り口に、日食メガネの特設コーナーがあった。
500円の日食メガネが朝日から出ていた。
児童用であった。
せっかく買うのに本が児童用では、読む中身が無いので、もったいないと感じた。
もう一冊千円以下の本があった。
「天文ガイド」という雑誌の5月号で879円だ。
本の中身を見ようとすると、どうやらこの一冊しか無いようで、手に取った本はビニールでしっかりくるまれていて、その上に、日食メガネつきと、手書きのラベルが張ってあった。
とりあえずそれを購入して帰った。
今思うと、とっくに売り切れているはずの5月号が残っていること自体が幸運だった。
帰ってすぐに、本を取り出し、先ず綴じ込み付録の日食メガネを確認した。
問題はない。
雑誌の中身を見た。
天文マニアの専門誌で、内容は専門家向けだ。
パラパラと雑誌を見ながら、中学生の頃天文部に入って、顧問の先生の宿直の時に天体望遠鏡で、漆黒の宇宙に土星や、火星や木星や月を見て、感激したことを思い出す。
中学卒業後も宇宙への興味は衰えなかった。
その当時、近くの星雲だけでなく、非常に遠い場所にも島宇宙が発見され、無数の銀河が存在することが分り始めた。
当然のことながら、宇宙の果てについても話があった。
するとそれに関連した話の時間とか空間とかも議論も新聞で紹介されていた。
高校時代に、先生に薦められた河合栄次郎の「学生に与う」を読み、哲学にも興味を持ち、カント哲学や認識の問題とか考えるようになった。
今から思えば、初歩的なことであったが、そのような哲学的思考から来る、人格とか自我とか自己認識と、存在や神と、宇宙との関係を考えると、頭が混乱して、天文学も嫌いになった。
それ以降天文学には接しなかった。
ところが、社会人になってからも、哲学や宗教には興味を持っていて、哲学史から始まり、様々なことを学んび、それぞれの哲学の解説書や、ニーチェやフロイトやユングその他様々な思想家や哲学者の短い著作も読んで(カント哲学、弁証法・マルクス主義、実存主義、現象学、記号論、構造主義・・・・)それぞれの哲学の概略を知り、更に物性論等を通じて科学的な世界のあり方も(科学思想史、科学史も含む)知った。
その後、ビッグバンからはじまり、宇宙の果てや宇宙のバブル構造が分り新聞で紹介され始め、それに伴い現代物理の時間・空間の概念に対する、自己認識や存在と宇宙との混乱や恐怖を感じることも無くなった。
そこには、禅のような東洋哲学的思考、ありのままを受け入れるといった思想も、影響しているかもしれない。
現在ではなんとなく、概念的に宇宙を捉えられるようになった。
そのような経過を辿り、今、天文ガイドを見て、中学時代の純粋な科学への興味や好奇心と、20―30代の頃に科学朝日やネイチャーニュートンを購読していたが、そのときの興奮と似た興奮を久しぶりに呼び覚まされた。
先週土曜日に、ジュンク堂でも日食メガネを調べたが、千円以上の雑誌しかなかった。
数週間前に、大阪駅前のブックファーストで、安い日食メガネを手にとって見ていた。
そのことが頭にあったので、もし安い日食メガネが売り切れていても、千円以上のものならあるだろうと考えた。
梅田のブックファーストに行った。
二階の理工学書売り場の入り口に、日食メガネの特設コーナーがあった。
500円の日食メガネが朝日から出ていた。
児童用であった。
せっかく買うのに本が児童用では、読む中身が無いので、もったいないと感じた。
もう一冊千円以下の本があった。
「天文ガイド」という雑誌の5月号で879円だ。
本の中身を見ようとすると、どうやらこの一冊しか無いようで、手に取った本はビニールでしっかりくるまれていて、その上に、日食メガネつきと、手書きのラベルが張ってあった。
とりあえずそれを購入して帰った。
今思うと、とっくに売り切れているはずの5月号が残っていること自体が幸運だった。
帰ってすぐに、本を取り出し、先ず綴じ込み付録の日食メガネを確認した。
問題はない。
雑誌の中身を見た。
天文マニアの専門誌で、内容は専門家向けだ。
パラパラと雑誌を見ながら、中学生の頃天文部に入って、顧問の先生の宿直の時に天体望遠鏡で、漆黒の宇宙に土星や、火星や木星や月を見て、感激したことを思い出す。
中学卒業後も宇宙への興味は衰えなかった。
その当時、近くの星雲だけでなく、非常に遠い場所にも島宇宙が発見され、無数の銀河が存在することが分り始めた。
当然のことながら、宇宙の果てについても話があった。
するとそれに関連した話の時間とか空間とかも議論も新聞で紹介されていた。
高校時代に、先生に薦められた河合栄次郎の「学生に与う」を読み、哲学にも興味を持ち、カント哲学や認識の問題とか考えるようになった。
今から思えば、初歩的なことであったが、そのような哲学的思考から来る、人格とか自我とか自己認識と、存在や神と、宇宙との関係を考えると、頭が混乱して、天文学も嫌いになった。
それ以降天文学には接しなかった。
ところが、社会人になってからも、哲学や宗教には興味を持っていて、哲学史から始まり、様々なことを学んび、それぞれの哲学の解説書や、ニーチェやフロイトやユングその他様々な思想家や哲学者の短い著作も読んで(カント哲学、弁証法・マルクス主義、実存主義、現象学、記号論、構造主義・・・・)それぞれの哲学の概略を知り、更に物性論等を通じて科学的な世界のあり方も(科学思想史、科学史も含む)知った。
その後、ビッグバンからはじまり、宇宙の果てや宇宙のバブル構造が分り新聞で紹介され始め、それに伴い現代物理の時間・空間の概念に対する、自己認識や存在と宇宙との混乱や恐怖を感じることも無くなった。
そこには、禅のような東洋哲学的思考、ありのままを受け入れるといった思想も、影響しているかもしれない。
現在ではなんとなく、概念的に宇宙を捉えられるようになった。
そのような経過を辿り、今、天文ガイドを見て、中学時代の純粋な科学への興味や好奇心と、20―30代の頃に科学朝日や
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