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現代美術を見る目に関する断片的考察: 昨日記140830 土

2014年08月31日 16時33分49秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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現代作品を見る時に、何気ない作品でも制作方法について聞くと、意外な答えが返ってきて、そこから更に話が発展し、そうしたことを通じて、作家の真意が読み取れることがある。
現代美術の場合は、そのような、作家の意図するもののヒントや対話なしには、作家の意図=コンセプトを理解できない作品は多くある。
歴史的な現代作品にも多くある。(例:デュシャン)
その意味で、作家がいるときには出来るだけ作家と話すようにしている。
現代作品は、様々な種類=表現の仕方があるので、具象絵画を見慣れてる人にとっては、壁がある。
しかも、同じ見方で見ることはできない。
例えばアクションペインティングとコンセプチャルと、同じ見方はできない。
その意味で、多くの作品を見ることが必要だし、ある程度の勉強も必要だろう。
見たままで分かる、ミロのような作品もあるがミロの作品を見る見方で、キーファの作品を見ることはできない。
ミロの作品は、見たままのイメージを楽しめばよいが、キーファの作品を見る時には、作品に多くの意味が込められており、彼の多くの作品で、歴史的な事柄も知っておく必要があることも多い。
その意味で勉強が必要でもある。
そうしたことを、無視して無知の状態で作品を鑑賞した場合、彼の意図の半分も汲み取っていないかもしれない。

芸術作品(美術・音楽・文学・・)は、作品が完成すれば、鑑賞者の見方にゆだねられるが、芸術は、哲学的(記号論等)に見た場合コミュニケーションの一種であり、作家の意図や感情・感性を、作品を通じて鑑賞者に伝える作業である。
作家は、作品を通じて作家の意図が十分鑑賞者に伝わることを望んでいる。
作品を通じて、鑑賞者が作品の伝えようとするものを、感じ理解することで、作品の評価や良し悪しが判断される。
そうしたことから、作家の内面以上のものは、いくら作品に込めた技術が良くても表現されないということは、容易に推測できる。
その意味で、作家が作品作りする以前に、どれだけ作家自身、表現したい深い中身を持っていのか、ということが問われる。
いくらテクニックが良くても、伝えたい感性なり内容が良くなければ、鑑賞者は、この作家はこの程度の人だということを知るだけである。

しかしそれ以前に、作品が理解されないまたは作家の意図なり感性が十分伝わらない場合も多い。
その場合は、作家の技量が未熟な場合と、鑑賞者の審美眼が低い場合(無知も含む)がある。

ただ、作家の技量が低くても、作家が表現したいものや深い感性や内面を持っていれば、伝わる。
長谷川利行の作品は、その例であろう。(彼のデッサンはうまくない。しかし詩を詠み、美術評論を新聞に書いていて、しっかりした高度な美意識を持っていた。彼の作品の多くが美術館に所蔵されている。)
ある意味アールブリュットも、それに属するかもしれない。


昨日は、午後から西天満へ出かけた。
偶然、インスタレーション的大作も複数あった。
それに刺激され、普段頭の中で意識していることの上に断片を書きだした。
西天満を後にして、北浜の2か所で展覧会が開かれているので、行った。
途中、よく知る作家の夫婦にあった。
彼らが行った、ビルの上のギャラリーに行った。
知り合いの作家の個展で、作家も居り話した。
その後、先日行ったギャラリーを訪ねたが、分からなかった。
仕方なく天満橋に寄った。
いつもはそのまま、コーヒーを飲みに行くが、昨日はジュンク堂でテキストを購入した。
そのついでに、同じ階に展示してあるライブペイントの作品をみてから、下に降りコーヒーを飲みながら読書を楽しんだ。
古事記のダイジェスト版を読んでいるが、何度いうようによく似た神々の名前が多く、それも突然出てきたりして、同時に荒唐無稽な話なので、なかなか読み込めない。

天満の帰りに、ホームセンターで夏の掛布団がないか見たがなかったので、近くのスーパーに寄り食材を買いそろえた。
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