R429の笠杉トンネルを超えて、朝来市への途中に、神子畑(ミコハタ)選鉱場跡という巨大な遺跡があります。WIKIPEDIAなどで調べると、この選鉱場の歴史は次のようです。
◆この地は神子畑鉱山として戦国時代より栄えていたが、直ぐ近くの生野鉱山の繁栄でその地位を奪われる格好で休山。その約300年後の1878年(明治11年)に明治政府が銀鉱脈を発見、翌1879年から採鉱を本格化するが、その後次第に衰退して三菱へ払い下げられるも、一度は閉山となる。
◆北西約6キロに位置する養父市の明延鉱山は戦国時代頃より採掘が始められた金属鉱山で、金・銀・銅・鉛・錫などを産出してきたが、1909年に明延鉱山で優良な錫鉱脈が発見され、採掘鉱量の増加により従来の選鉱施設では手狭になってきていた。
そこで明延では採鉱後の一次破砕までを行い、神子畑に選鉱機能を移設する計画が持ち上がり、、1919年に神子畑は明延鉱山から運び込まれた鉱石を選鉱する大規模な「機械選鉱場」として生まれ変わることとなった。
◆神子畑選鉱場では、山の斜面を利用した巨大な機械選鉱場はその規模・産出量ともに「東洋一」と謳われ、特に「比重選鉱技術」は国際的にも高い評価があったようです。
最盛期には約3000人が従事し、24時間稼働していたようで、夜になると光に浮かぶ選鉱場が不夜城のようだったといわれています。
◆しかし、その後円高の急激な進行で競争力を失った明延鉱山が1987年に閉山されることになり、その後は長らくこの選鉱場の建物が残存していたが、2004年に撤去・解体され、現在はひな壇状に22段構成となっていた鉄筋コンクリートの基礎構造物と、選鉱所の上下を結んでいたインクラインの跡が残るだけとなっている
◆かっては、明延鉱山から本選鉱場までは明神電車で鉱石が搬送されていたが、これには従業員の家族などが便乗できる客車も連結されていて便宜を図っていたようです。この料金が1円だったことから、一円電車とも呼ばれていたようで、現在国道に隣接している史跡公園「鉱石の道 神子畑ステイション」の一角に展示されています。
このように、かっての日本の工業を支えた非常に巨大な鉱山遺跡ですが、明延鉱山の他にもこのすぐ南には日本初の官営鉱山となった生野鉱山もあり、これらの3つの鉱山のエリアは平成16年に「鉱石の道」と命名され、平成19年には経済産業省の近代化産業遺産群に認定されています。(まさ)
神子畑選鉱場跡。高さは75mもあるようです。左側にはインクラインが見えます
かっては、このように全体が屋根で覆われていたようです。(案内板の写真から)
選鉱所の上下を結んでいたインクライン跡。ケーブルカーのように真中で交差します
シックナーと呼ばれる巨大な施設。(円錐形になっており、巨大な脱水機のようです)
2基あります
「鉱石の道 神子畑ステイション」に展示されている明神電車(通称、一円電車)
神子畑選鉱場と明延鉱山の位置図。一円電車は6.1kmを運行していました
直ぐ近くにある、巨大なサルスベリの木
敷地内にはかっての社名「明延鉱業」が大きく残っています。
播但自動車の朝来IC近くにある羽渕鋳鉄橋。現在でもJR播但線が利用しています。
何とも存在感のある鉄橋です。
◆この地は神子畑鉱山として戦国時代より栄えていたが、直ぐ近くの生野鉱山の繁栄でその地位を奪われる格好で休山。その約300年後の1878年(明治11年)に明治政府が銀鉱脈を発見、翌1879年から採鉱を本格化するが、その後次第に衰退して三菱へ払い下げられるも、一度は閉山となる。
◆北西約6キロに位置する養父市の明延鉱山は戦国時代頃より採掘が始められた金属鉱山で、金・銀・銅・鉛・錫などを産出してきたが、1909年に明延鉱山で優良な錫鉱脈が発見され、採掘鉱量の増加により従来の選鉱施設では手狭になってきていた。
そこで明延では採鉱後の一次破砕までを行い、神子畑に選鉱機能を移設する計画が持ち上がり、、1919年に神子畑は明延鉱山から運び込まれた鉱石を選鉱する大規模な「機械選鉱場」として生まれ変わることとなった。
◆神子畑選鉱場では、山の斜面を利用した巨大な機械選鉱場はその規模・産出量ともに「東洋一」と謳われ、特に「比重選鉱技術」は国際的にも高い評価があったようです。
最盛期には約3000人が従事し、24時間稼働していたようで、夜になると光に浮かぶ選鉱場が不夜城のようだったといわれています。
◆しかし、その後円高の急激な進行で競争力を失った明延鉱山が1987年に閉山されることになり、その後は長らくこの選鉱場の建物が残存していたが、2004年に撤去・解体され、現在はひな壇状に22段構成となっていた鉄筋コンクリートの基礎構造物と、選鉱所の上下を結んでいたインクラインの跡が残るだけとなっている
◆かっては、明延鉱山から本選鉱場までは明神電車で鉱石が搬送されていたが、これには従業員の家族などが便乗できる客車も連結されていて便宜を図っていたようです。この料金が1円だったことから、一円電車とも呼ばれていたようで、現在国道に隣接している史跡公園「鉱石の道 神子畑ステイション」の一角に展示されています。
このように、かっての日本の工業を支えた非常に巨大な鉱山遺跡ですが、明延鉱山の他にもこのすぐ南には日本初の官営鉱山となった生野鉱山もあり、これらの3つの鉱山のエリアは平成16年に「鉱石の道」と命名され、平成19年には経済産業省の近代化産業遺産群に認定されています。(まさ)
神子畑選鉱場跡。高さは75mもあるようです。左側にはインクラインが見えます
かっては、このように全体が屋根で覆われていたようです。(案内板の写真から)
選鉱所の上下を結んでいたインクライン跡。ケーブルカーのように真中で交差します
シックナーと呼ばれる巨大な施設。(円錐形になっており、巨大な脱水機のようです)
2基あります
「鉱石の道 神子畑ステイション」に展示されている明神電車(通称、一円電車)
神子畑選鉱場と明延鉱山の位置図。一円電車は6.1kmを運行していました
直ぐ近くにある、巨大なサルスベリの木
敷地内にはかっての社名「明延鉱業」が大きく残っています。
播但自動車の朝来IC近くにある羽渕鋳鉄橋。現在でもJR播但線が利用しています。
何とも存在感のある鉄橋です。