goo blog サービス終了のお知らせ 

老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

ややこしい日本語  その① 一人称それとも二人称?

2019年10月25日 20時46分41秒 | 面白い言葉や語源など
 10月19日の毎日新聞の夕刊の「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムで、松尾氏が「ややこしい日本語」というテーマで書き込まれていました。

 同氏は、「自分」「手前」などのように、本来は一人称である言葉が二人称で使われていることの列記と、その経緯などを色々と推測されております。

 私も、このブログを始めた当初に触れたと思いますが、神戸や播州で育った私は、大阪育ちの人が私に向って“自分、何考えとん?”のように、“自分”という言葉を二人称として使うのに非常に違和感を覚えた記憶があり、このコラムを非常に興味持って読ませて頂きました。

 同コラムの内容を、私の理解なども混ぜて、整理しておきましょう。

◆まず関西では(というものの、関西育ちの私の理解では、関西全般ではなくて大阪でも河内弁が使われていた地域の、独特の言葉遣いだと思っているのですが・・・)

・先に述べたように「自分」という通常は一人称の言葉を、相手を指す二人称として使う事がよくあります。
「自分」を本来の一人称として使う人達は、最近では警察官や自衛官や強面の運動部員などのイメージが感じられるでしょう。

・また、「われ【我/吾】」という言葉も本来は、①“わたくし/わたし”を意味する、一人称の人代名詞(例:我は海の子・・・)、或いは② “その人自身/自分自身/おのれ”を意味する反射代名詞(例:我を超越する)として使われる言葉ですが、二人称を指すことばとして使われることもあり、③“ おまえ。なんじ”を表す二人称の人代名詞とあります。(『デジタル大辞泉』)

 通常は「われ、何考えとんのじゃ」というような、少しガラの悪い言葉遣いになりますが、更に悪くなると「われ」が「わりゃ」となります。

 「われ」を本来の一人称として使われるのは、最近では殆どなく、複数形の「我々」という言葉で使うのは、やはり上記の様に堅い仕事の人たちか少し古い左翼活動家くらいでしょう。

・上記の「われ【我/吾】」と同じように、本来は一人称の「おのれ(己)」も二人称で使われますし、この「おのれ」はガラの悪い言葉では「おんどれ」となります。


◆このような使い方は、関西だけでなく関東にも見られます。

 例えば、「手前」という言葉は、“わたくし/わたし”を少し謙遜して使う一人、称の人代名詞で(複数形は「手前ども」となります)、「手前の生まれは信州です」というような遣われ方をしますが、関西の「自分」同じように、相手を指す二人称の人代名詞としても使われています。
但し、この場合は「てめぇ」という言葉に変化することが多いようです。


◆また、関西/関東の区別なしに遣われているケースもあります。
それは、小さな子供に対して「、名前は?」と言う事がありますが、これなどは明らかに一人称を二人称として使っている例です。


◆このように、関西や関東を問わず、一人称の言葉を二人称にも使うようになったのは何故かが非常に気になりましたが、短時間の調査ではこれという明白な理由が見当たらず、調べた範囲内でなるほどと思われたものを列記しておきます。

・このような傾向は最近出てきたものではなく、結構古くからあるようです。
即ち、江戸時代には、「自分」が「御自分」の形で二人称の人代名詞としても用いられたり、浄瑠璃にも「われ」が二人称として使われている例があるようです。

・その理由としては、日本の文化と深い関係があるという説があります。
即ち、日本には古くから「ウチとソト」という独特な考え方があり、一人称・二人称・三人称という平等な関係がなく、主として「ウチ」なる間柄(私とあなた)でしか言葉が使われてこなかった。

 そんな「ウチ」なる間柄の中では、相手との隔たりをどのように扱うか、そこに大きな関心が払われ、「ウチ」なる存在の相手を、親しみをこめて敢えて「一人称」で呼ぶという現象が起きたということだそうです。

・そもそも、一人称/二人称というのは西洋語、特に英語の文法に準じて日本語を無理やり分類した場合に出てくる区分けで、元々の主語が無いのが特徴で、「ウチ」なる間柄の中で生まれてきた日本語を単純に区分けすることに無理があったとも言われています。(まさ)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。