素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

思いを語ること

2009年11月22日 | 日記
 私が就職した頃、枚方市の中学校では信州(主に戸隠)での3泊4日、しかも各クラスごとの分宿による連泊という形の修学旅行が多かった。自然の中でさまざまな活動をするのだが、メインイベントと位置づけられていたのが“ミーティング”と称するものである。

 どこかの夜にクラス全員集まり、自分のかかえている悩み、思い、辛かった経験などを一人ずつみんなの前で語っていくというものである。1年目は3年の担外であったので直接かかわらなくて良かったが、2年目は3年の担任になったのでそうはいかなかったが、結局できなかった。いろいろな所で感動的な実践報告を聞く機会があったが、その後も“ミーティング”という取り組みはできずに終わった。

 高校の修学旅行での徹夜の語り合い、私だけでなく多くの人が経験していることと思う。人間はさまざまな思いをかかえながらも、日々の生活ではその場に応じた顔で生きている。生徒たちとて同じである。修学旅行で過ごす数日は日常から離れた別の空間を生きる。特に夜はそうである。「就寝時間やで」という注意をかいくぐって生徒たちは群れてしゃべりたがる。

 私はお互いに自分の思いをしゃべるということは大切なことだと思っている。他人に話しながら同時に自分に語りかけているということがあると思う。話すことで自分の思いが整理できたり、聞くことで「自分だけではなかったのだ」と共感の気持ちが起こったり、「そういう思いでいたんだ」と人を見る目が深くなったりと語り合う中で、それぞれの心の中では化学反応を起こし、新たに生きていくエネルギーをつくり出していくのではないかと思っている。

 “ミーティング”というのは本来人間が持っている基本的な欲求を、学校というシステムの中に組み込んだものだと思う。したがって、生徒は強制的に参加させられるのである。私はそこに抵抗を感じた。修学旅行という非日常の中で、信頼できる仲間の中で自然発生的に生まれればよいことで、その部分についてはタッチすべきものではないと考えている。

“自分の中にかかえているしんどさ”を語るには、聞いてくれる人、状況、タイミングなどが必要である。それらは意図してできるものではなく、偶然何かの拍子でできるものである。高校時代の中瀬の話もそうであった。あの時、「自分は受験に失敗して、一浪している」という話をし、本音を語るという場の空気ができた中でそれぞれが自分の思いを語った。しかし、私は語ることができなかった。そのことが自分にとってはまた心のおもりとして残っていった。

 私も受験に失敗している。ただ、補欠(2~3人)という形でひろわれた。そういうシステムの存在は知らされていなかったので、寝耳に水という感じで釈然としないままの入学であった。

 伊勢高校は同じ中学から5人で受験した。私の番号は42番だった。縁起の悪い番号やなと冗談を言っていたが、現実に「死に番」となった。掲示板に貼り出された中に、自分の番号だけが抜けていた。発表を見た後、電車で帰ったが私以上に合格した友人も気を遣い、なんともいえない複雑な空気であった。家に入り一人になった時、落ちたことより、その空気から脱け出たことにホッとした思いを持った。

 今でもそうだが、基礎からきっちり積み上げるという手堅い学習ができないのでいたるところに穴がある。得意、不得意がはっきりしているタイプなので成績も不安定であった。苦手な分野が多く出ていてテスト中から「こりゃ駄目かもしれない」という予感があったので、自分の中では不合格が意外なことではなく、仕方がないこととして受け入れ、次の私立高校での生活に思いを馳せることができた。ただ、まわりの人たちのなぐさめや励ましはわずらわしかったので1週間ばかりは誰にも会わずに過ごした。

 私立は四日市にあったので、下宿を決め、教科書、制服を買ったりと結構いそがしかった。荷物もすっかり準備ができ、明日、出発という昼前。突然、担任の先生がオートバイで家に駆けつけ「補欠で合格した。1時から英数の事前テストがある。親には連絡してあるからとにかくこれに乗れ」ということで担任のオートバイに乗って、何がどうなっているのかわからないまま高校へ行き、英数のテストを受けた。

 あまりにも突然のことだったので私自身不可解極まりなかった。同様に、同じ中学から受験した4人にとっては「なぜお前がここにいるのだ?」と怪訝な思いだったと思う。結局4人とは卒業するまで廊下ですれ違っても、同じクラスになっても口をきけなかった。説明不能な不可解さが自分の中にわだかまりとしてあったからだと思う。

 英数のテストが返されたとき、席次もついていて、100番台の前半だったと思う。その時、漠然と入学試験という1回のテストは絶対的なものではないということを感じた。今、全国学力テストで学力低下うんぬんと騒がれているが、1回きりの、生徒にとって今の自分になんら益にもならず、モチベーションも上がらない中でのテストで学力を測ったつもりになっていることへの生理的な嫌悪感がでるのはこのあたりに源があるのかも知れない。

 義務教育を終えた後は社会システム上、あらゆる場面で選抜試験があるのは仕方がないことである。その後、私は大学受験、採用試験においても第一希望はすべて不合格であった。しかし、そのことで自分自身を必要以上に過小評価せず、自分に与えられてきたポジションでベストを尽くしてきたという自負はある。だから、若い時には語れなっかたことも出せるようになった。

 「思いを語る」ことは決して強要してはいけない。でも「思いが語られた」時は耳を傾けたいものだ。
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