素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

つれづれに思うこと

2010年12月02日 | 日記
 米韓の軍事演習が終わった。ここ1週間の朝鮮半島を巡る関係国の動きを見ている(マスメディアを通じてだが)と国際関係の一筋縄でい場かない面を改めて感じた。歴史的な経過による政治上の問題と現在進行中の経済的なからみあい、加えて各国の国内事情などもあり、複雑である。塩見さんの言葉(以後青字で)を借りれば

 今や「敵」と「味方」の区別が簡単でない時代になった。この荒海で舵を操っていくには、味方さえも冷徹に分析する視点が必要ではなかろうか。

 第二次世界大戦後からは一神教同士(共産主義も宗教と考えれば)の対立にふりまわされてきたのではないかと思う。米ソの冷戦から中東問題まで他者の信ずる宗教を認めない非寛容の姿勢が多くの悲劇を生んでいるような気がする。その観点から見ると日本という国は、宗教でも政治でもはっきりしていない部分が多い。文字文化に顕著に現れているのではないかと思う。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字さらに絵文字などを臨機応変に使い分けている国は特別な存在ではないか。それらを卑下することなく、もう一度しっかり見直す時期が到来しているのかもしれない。

 それに今は一神教のほうが声が高いが、自分たちだけが正しいと信じている人の常で、遅かれ早かれゆりもどしの時期がくる。要するに、「非寛容」で押してきた双方ともが壁に突き当たり、やむをえずにしても「寛容」に転換する時期が必ずや来るということだ。そのときこそが日本人の柔軟性が活きてくるときだから、われわれ日本人はそのときを、自信をもって待っていればよいのである。

 日米安保も50年の節目を迎える。昨日のクローズアップ現代で、防衛大綱の見直し作業に伴う南西諸島への配備を模索する動きを報じていたが、沖縄の問題もからめてこれから重要な課題になると思う。物心ついてから日米安保の問題は好むと好まざるとにかかわらず私のまわりには常に存在していた。迷いつつかかわってきたというのが正直なところだ。これからも迷いつつつきあっていくと思う。そのためには、質の高い情報を得るということがとても大切なことである。

 つくづく思うのだが、情報の伝達ということに限れば、新聞・雑誌・書籍の活字媒体は、テレビにもインターネットにも絶対かなわない。それで、これら活字媒体が読まれなくなり売れなくなった要因をテレビやネットの普及に帰すのだろうが、私の思うにはそれは、負け犬の遠吠えにすぎない。もはや情報の伝達速度で勝負する時代ではなくなったのだから、勝負の武器を他に求める必要は不可欠であり、それもしないで嘆いているのは、知的怠慢以外の何ものでもないと思うからである。
 そして、テレビやネットの時代で勝負するための「武器」とは、事後でも読むに耐え、情報はすでに知っていても読みたいと思わせ、それでいて読んだ後に満足w与えられるもの、つまり、つまり、情報の「読み」なり「解釈」なりで勝負したもの、を書いたり言ったりする能力でしかない。


 同感であるし、私はそういうものに飢えている。
コメント
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