マザー・テレサの列聖の祝うミサの準備のためにボランティアが集まる時間は11時だった。
私は目覚めた時からそわそわしながらも絶対に遅れないようにと思いながらも、ゆっくりとコーヒーを飲み、朝食を取る時間を作った。
前日から決めていた乗る電車の一本前に乗れた、これでは少し早く着いてしまうと思いながらも手さげ袋のなかにあるトルストイの「人はなんで生きるか」を開いた。
この本を読むのは二度目、そして読んでいたところは三番目の民話「愛あるところに神あり」だった。
マザーのためのミサに向かうにはちょうど良い読書だと思った。
「じゃ、人間は、なんのために生きればいいんですかね?」とマルツィンは聞いた。
すると、老人は言った。
「神さまのためにさ、マルツィン。おまえに命を下されたのは神さまじゃから、神さまのために生きなければならんのさ。神さまのために生きるようになりさえすれば、何も悲しむことなんかなくなって、どんなことでも、なんでもなく思えるようになるものじゃ」
こんなところを読みながら、私はマザーを思った。
彼女はその生涯を神さまのために生きた、そして神さまのために美しいことを行おうとし続けた、その意味と喜びの福音を伝えようとし続けた。
{つづく}
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