穏やかな朝。
正月の朝とはなぜか少しいつもより身が引き締まると言うか、車の通りも少ないので静かと言うか、なんだかうまく言葉に出来ぬ、嬉しさのうちに新鮮なものを身体で感じる。
そして、空が青く高い。
このなかには新年を喜ぶ、命への感謝の歴史が自分のなかにあり、それを感じる部分が反応しているのではないかと思う。
昨日お世話になっている方に頂いたつけ麺を二人前ぺろっと食べて、10時過ぎにあんと多摩川に向かった。
いつもと同じ道を行くが、そこはすでに正月の道に染まっているようで、その現実の非現実さが何とも良い。
そんな感覚を自分に一つの場面が色付けた。
多摩川近くの芝間公園では若いお父さんが500ミリのキリンラガーをベンチに置いて、子供と遊んでいた。
この一つの場面から、いろんなドラマが想像できた。
お正月はゆっくりとしたいお母さんの代わりに公園に来て、普段午前中からビールなど飲めないけど、今日は正月だから、お母さんに許してもらって、とにかく子供を遊ばせに公園に来ているお父さん。
子供の面倒を見るからビールを許されたのか?
そこでどんな取り引きがあったのか?
ビールが大好きでしょうがないのか?
午前中からビールを持って、子供とお遊びに来るお父さんなど見たことがない、見たことはないが、もし自分に子供がいたら、正月だったら、そうするかもしれないと少し思ったり、また遊びは遊びと、しっかりと遊ぶかなと思ったり、そんな当るか当らないか、まったく分からない想像を一瞬のうちにして、自分が遊んでいた。
良く陽射しがあたり、公園はあたたかだった。
あんはいつものようにトコトコと多摩川に向かった。
今日は良くボール投げをして遊んだ。
あんはだんだんと言うことを聞くようになったような気がする。
まだ「ような」と言う表現を使わなくてならない、確信には遠いところがあるが、もうむちゃくちゃには走り回ったり、誰構わず近寄ったりもしなくなくなった。
鳥のササミを持っているからだけのことではないと思う。
そう言いながらも、やはり鳥のササミはベストに近いほどあんの食いつきは抜群。
どこかをクンクンしていても「おいで」で走ってくる。
ただし、一回の「おいで」では来ないこともある事実は述べなくてはならない。
うたうのと違う声の出し方をするので、大声で「おいで」を言うと、なんか喉が可笑しくなっていることに気付いたりもする。
風邪を引かないように気を付けてなくてはならない。
今日あんは空を飛べる憧れと嫉妬から、ハトを追い掛け回していた。
それでかなり遠くまで言っても、ちゃんと「おいで」で帰ってきて、水を飲んではゲップする。
「おいおい、あん、大丈夫か?」と思うが、あんは絶好調だった。
とても良い運動になった。
さて、帰ろうとすると、いつものように間逆を向いて座り込みのストを起こすあん。
そこも鳥のササミで和解成立させ、トコトコと歩き出す。
二つの家族がカイトをあげていた。
ゲリラカイトをあげていた。
自分も子供の頃、良く冬になるとゲリラカイトをあげていた。
人差し指を口のなかに入れ、それを出してから立てる。
そして、指の冷たくなった方向が風上であることが分かる。
その風に乗せるように、カイトを放し、指が冷たくなった風上に走る。
青空を気持ち良く泳ぐカイトを眺めながら、思いだしていた。
糸の切れた凧のように生きてきたこともあったが、それは気のせい、その糸は切れずに今もあり続けているように思える。
孫悟空がいくらきんとうんに乗って遠く逃げたと思っても、気が付けば、お釈迦様の手の平の上の出来事のようなものと似ているのではないかと、ふと思い、笑う。