今夜も本をまくらに。

山歩きが好き、落語が好き、おいしい物が好き、中島みゆきが好き、
でもやっぱり活字がなければ生きていけない私。

日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族

2016年09月24日 | 「本」のひきだし

ブクログより


夢中で読み終えましたが衝撃でした。

終戦になってからも、上官から「任務続行」の命を受け、中国上海に潜伏して諜報活動をしていた深谷義治さん、その時30歳。
それ以前に中国人女性と策略結婚されています。

動機は策略だったとはいえ、3男、1女をもうけ、やがて信頼や絆がうまれ、幸せな家族として暮らしてきましたが、やがて身許が明かされ中国公安当局により身柄を拘束されるや、日中平和友好条約の締結による特赦を受けるまで、20年あまり投獄されていました。

と簡単に書きましたが20年です・・・
生まれたての赤ちゃんなら成人しています。深谷さんが拘束された時、下の御嬢さんはまさに0歳だったのです。

そして投獄されていた間に受けた拷問や虐待、細かくは書かれていませんが想像を絶するものだったようです。
その間にも深刻な結核に罹ったり、脊椎を骨折したり、何度も生死の境をさまよいながらも、家族のもとに帰りたい一心で耐えてこられました。

でももっと簡単に返してもらえる方法があったのです。
「戦後も中国で諜報活動をしていた」この事実を認めさえすれば釈放されたのです。
けれど深谷さんは頑として認めませんでした。

「私は国に命を捧げてきた軍人であり、死んでも日本国に対して不名誉なことをかぶせてはならぬ」という一心からでした。
そして釈放が認められ、ようやく帰国を果たされ、こんな思いで日本の名誉を守ってきた深谷さんに日本の対応は結構冷たいのです。

帰国に関しては、外務省や地元島根の皆さんの尽力のおかげで、大歓迎を受けての帰国でしたが、それからの生活が成り立たないのです。

長い投獄生活で心身ともにボロボロの深谷さんと、言葉の壁に阻まれた奥さんと子供たちがまず生活するには大変でした。
頼りになる軍人恩給が正当に出ないのです。
深谷さんは、戦線離脱者として扱われていたのです。

せっかく苦労してやっと帰ってきたのに、まだ安らかに暮らすことのできない理不尽さに家族は打ち萎れるのです。この問題は今現在もまだ解決されていないようです。
最後にお孫さん(著者の娘さん)の文章が掲載されていますが、こんな立派なお孫さんができたこと、こんな風に父親や祖父母のことを思ってくれていること、それだけで深谷さん一家がいままでされてきたご苦労が報われる思いです。

今や戦後70年余もたちますが、まだまだ戦禍は終わっていないと、思い知らされた1冊です。




日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族 / 深谷敏雄
☆☆☆☆☆






台風が過ぎてもすっきりとしたお天気にはならず、山行もままならず題名通りのブログになりつつあります。
うまい具合に雨を避けて、小学校の運動会は無事すみました。
お兄ちゃん、最後の運動会なのに足の小指を骨折して、組体操は弟に助けてもらい(注意して見ていないとわからない)かろうじて参加。
思い出深い運動会になりました。



間が悪いお兄ちゃんでした。


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