先週、仕事がらみで久しぶりに映画の試写に行った。
韓国のポン・ジュノ監督がチェコなどで撮影した国際合作『スノーピアサー』。フランスのコミックが原作という。
未来の氷河期の地球を「ノアの方舟」とも人間社会の縮図とも見える列車が疾走する。わずかに残った人類の階級闘争(?)を描く。一種の密室ドラマであるが、場面はめまぐるしく、飽きさせない。劇画調とはいっても、いろいろなこだわりと哲学を見せる。ネタバレはしない方がいいのでこれ以上内容には触れない。
カメラマンなどは韓国の身内であり、おそらくはハリウッド型ではない撮影システムで、監督はのびのびと自由に作ることができたのではないか。
文化について、国内の普及、人材養成、そして国際進出に於いても、日本は韓国に遅れを取っているな、とあらためて思う。靖国公式参拝を許し「従軍慰安婦」の存在したことを認めないような日本の「国際感覚」では、なおさら追いつけまい。
やはり世界が滅亡に向かう設定の深作欣二監督『復活の日』は三十数年前だが、映画というジャンルじたいが、ずいぶん変わったのだなあと思う。
やはり自分は密室物が好きなのだろう。列車の車輌ごとの変化や、シチュエーションの飛躍する方法など、拙作『屋根裏』との類似点を勝手に見出す部分もあり、私はよりいっそう楽しめた。
正月休みに映画は他にも観ていて、IMAXの3Dで観るべきと言われたので、豊島園で『ゼロ・グラビティ』を観た。視界まるごとが立体感覚で、なるほど疑似体験型のアトラクションとして、この水準のものを映画館で見せられる時代になったのだなあと思う。
『キャプテン・フィリップス』というのも観たが、『ゼロ・グラビティ』同様に、脚本がただ出来事の羅列の連続で、「こうしてそうしてこうなった」というだけのように思われた。二作品とも主人公の孤独なあり方を際立たせることに焦点があるための単純化だろうか。
『スノーピアサー』も含め、コンピュータグラフィックを駆使した作品は、昔だとアニメ的な書き割りの画だったりいかにも「特撮」とわかるものだったのだが、現在はほぼ「実写」のように見えてしまう。
とても見事だと思う。
だが、この時代は逆に、「実写」もどこかで「コンピュータグラフィックではないか」と思いながら観るようになり、私たちの「写真」に対する信頼はずいぶん変わったのではないかと思う。
つまり、「証拠写真」が成り立たない時代になったのだ。どんな「写真」を見ても、「合成でないか」「ニセモノでないか」と思うようになってしまったのだ。これはけっこう深く考察すべき問題なのでいずれまとまった形で書くと思うが、「写真」の発見から変化した人間の認識が、次の段階に進展しつつあるということでもある。
この時代、相対的には、「生身」であることは歴然としているライヴの表現である「演劇」の優位性が勝ってきているのではないか、とも思うのだった。目の前に生きものとして存在してる俳優に、存在としてはニセモノもへちまもないのである。だが、そのことに寄っかかっていてはいけない。やはり大切なのは、フィジカル面も含めた作り手の「想像力」である。
韓国のポン・ジュノ監督がチェコなどで撮影した国際合作『スノーピアサー』。フランスのコミックが原作という。
未来の氷河期の地球を「ノアの方舟」とも人間社会の縮図とも見える列車が疾走する。わずかに残った人類の階級闘争(?)を描く。一種の密室ドラマであるが、場面はめまぐるしく、飽きさせない。劇画調とはいっても、いろいろなこだわりと哲学を見せる。ネタバレはしない方がいいのでこれ以上内容には触れない。
カメラマンなどは韓国の身内であり、おそらくはハリウッド型ではない撮影システムで、監督はのびのびと自由に作ることができたのではないか。
文化について、国内の普及、人材養成、そして国際進出に於いても、日本は韓国に遅れを取っているな、とあらためて思う。靖国公式参拝を許し「従軍慰安婦」の存在したことを認めないような日本の「国際感覚」では、なおさら追いつけまい。
やはり世界が滅亡に向かう設定の深作欣二監督『復活の日』は三十数年前だが、映画というジャンルじたいが、ずいぶん変わったのだなあと思う。
やはり自分は密室物が好きなのだろう。列車の車輌ごとの変化や、シチュエーションの飛躍する方法など、拙作『屋根裏』との類似点を勝手に見出す部分もあり、私はよりいっそう楽しめた。
正月休みに映画は他にも観ていて、IMAXの3Dで観るべきと言われたので、豊島園で『ゼロ・グラビティ』を観た。視界まるごとが立体感覚で、なるほど疑似体験型のアトラクションとして、この水準のものを映画館で見せられる時代になったのだなあと思う。
『キャプテン・フィリップス』というのも観たが、『ゼロ・グラビティ』同様に、脚本がただ出来事の羅列の連続で、「こうしてそうしてこうなった」というだけのように思われた。二作品とも主人公の孤独なあり方を際立たせることに焦点があるための単純化だろうか。
『スノーピアサー』も含め、コンピュータグラフィックを駆使した作品は、昔だとアニメ的な書き割りの画だったりいかにも「特撮」とわかるものだったのだが、現在はほぼ「実写」のように見えてしまう。
とても見事だと思う。
だが、この時代は逆に、「実写」もどこかで「コンピュータグラフィックではないか」と思いながら観るようになり、私たちの「写真」に対する信頼はずいぶん変わったのではないかと思う。
つまり、「証拠写真」が成り立たない時代になったのだ。どんな「写真」を見ても、「合成でないか」「ニセモノでないか」と思うようになってしまったのだ。これはけっこう深く考察すべき問題なのでいずれまとまった形で書くと思うが、「写真」の発見から変化した人間の認識が、次の段階に進展しつつあるということでもある。
この時代、相対的には、「生身」であることは歴然としているライヴの表現である「演劇」の優位性が勝ってきているのではないか、とも思うのだった。目の前に生きものとして存在してる俳優に、存在としてはニセモノもへちまもないのである。だが、そのことに寄っかかっていてはいけない。やはり大切なのは、フィジカル面も含めた作り手の「想像力」である。