地方政治の歪みを鋭く描いたドキュメンタリー映画『はりぼて』の五百旗頭幸男(いおきべ・ゆきお)監督の最新作、『能登デモクラシー』。さらに個性の出た、しかしまっすぐな作品となっている。
舞台は能登半島中央の、石川県穴水町。人口は六千人台、ここが「過疎の町」であると住人たちも自覚している。その集落の中心部から離れた、開発を途中で止められている悪路の行き着く先の限界集落に暮らす、八〇歳の元中学校教師・滝井元之さんが,本編の主人公である。
穴水町には定例会見がない。地域についての報道も僅かである。インターネット配信全盛のこの時代に、権力監視の役割を担い、町民に信頼されている最強のメディアが、滝井さんが2020年から発行している、手書き新聞「紡ぐ」である。配布は月2回、部数は500部という。
この紙面で滝井さんは、旧態依然とした利益誘導に傾く政策に警鐘を鳴らしている。映画の中で語られるように、町民たちは、穏やかな穴水湾での伝統漁法「ボラ待ちやぐら」のように、我慢強いともいえるが「何もしなければ、何も変わらない」という受け身の部分があると、映画は指摘する。
五百旗頭監督ら石川テレビのクルーは、自分たちの報道によって町が変わっていくことがわかっていて、この土地の未来に自ら関わっている。「ローカルメディア」とは、たんに報道するだけではなく、発信者の積極性を持つ。映画は穴水町の役所と町議会の癒着、その歪みに迫ってゆく。そして本来メディアの存在意義とはそこにあるのではないかというべき「問いかけ」を重ねてゆく。なにしろ五百旗頭監督は、『はりぼて』では富山市議会の不正を暴き、市議が次々とドミノ辞職してゆく現実の改革を呼び起こした張本人という過去を持つ。
さいきん石破総理が商品券10万円を新人議員たちに配ったことが問題になっているが、この穴水町の町長も当選議員にお酒券(ビール券?)を渡した。映画はまさにその受けとっている姿の動画映像を登場させるだけでなく、その映像を町長や議員たちに直に見せる場面がある。もはや五百旗頭監督らも映画・テレビのジャンルの域を超え、滝井さんの孤独なたたかいを支えているのだ。
金券を御祝いとして渡すのは寄付行為に当たるから禁止されており、町から当選者への御祝いとして許されるのは物品でないと駄目だというルールを五百旗頭監督らに告げられて戸惑う町長や議員たちの姿。選挙についてしゃあしゃあと「買収」が存在することを自慢げに語る前町長の発言といった「事実」が、映画の中で鋭く重ねられてゆく。前町長や議会での質問をほとんどしたこともない古株議員たちが、惰性で権力の濫用を自明としてきた事実が浮かび上がる。
この街の過去がたんに「なあなあ」だったのではなく、町長が「能登半島に採算とれる所なんてないじゃないですか」と開き直るように、地方行政の困難さが浮かび上がる。そして、それまで悪びれることなく暗黙の了解として認められてきてしまったらしい町長・前町長の利益誘導の事実(具体的には町長が別組織の立場で運営する新施設にまつわる土地貸与等を含んだ問題)を突きつけていく展開は、ジャーナリズムかくあるべし、という厳しさを備えている。
そして2024年1月1日、能登半島地震が発生する。この町を継続して取材する途中で、地震が起きたのだ。劇映画以上にドラマティックな展開である。
カメラは思わぬ震災に見舞われた町と人びとの姿を捉えてゆく。新聞「紡ぐ」震災後の号の「私たちは生きています」という手書きの文字がリアルだ。
自然災害に対応しなければならない現実に迫られると同時に、同年5月に放送された(この映画の前半部分にあたるであろう)この映画の同名のテレビ版がそれを観た町民たちに与えた影響が、穴水町に大きな変化をもたらした。
五百旗頭監督らが風穴を開けた。
町長も町の復興のための市民ミーティングを複数回開き、すべてのテーブルに顔を出して意見を聞くようになっている。町長も地域のコミュニケーションを模索し改良しようとしている。五百旗頭監督らはその姿をきちんとフェアに描く。
そして、滝井元之さんと妻・順子さんは、最近の、フィクションも含めた映画に登場するあらゆる主人公たちよりも、魅力的である。とくに順子さんの目のまっすぐな美しさは、映画というジャンルによって届けられる最良のものがあることを示している。
そして最後には、五百旗頭監督自身が穴水町最大のタブーとされているらしい事実を、あらためて言葉にする。
先述のようにこの映画は「石川テレビ」が製作しており、五百旗頭監督は「テレビマン」として行動してもいる。そのことが決して映画としてマイナスにならない。それは彼がそのポジションを逸脱するほどの,否、それが当然と思うだけの、当事者意識を持っているからだ。
映画は被災者のもとに門付け訪問する滝井さんのセリフで終わる。草の根の手書き新聞と、その活動を報じたテレビによって、この町が変化してゆく予感で終わる。
ああ、これが民主主義だ。憲法というものが、滝井さんたちの活動を支えているし、憲法が要求する国民の「不断の努力」とは、こういうもののことを言うのだと、心から認識させられる。
音楽も、過剰なようでいて、作品独特の個性を生みだしている。風の音、街で人びとの囲むざわめき、自然の拡がり、ドキュメンタリーなのに劇映画なみに施された音響設計が、優れている。
同じ配給会社・東風は、『五香宮の猫』はじめ想田和弘監督の映画を手掛けているが、なんとこの映画もネコ映画である! 人とネコの関係が写る豊かさは想田作品と相通じる。
『能登デモクラシー』は、5月17日から、東京・ポレポレ東中野、大阪・第七藝術劇場等で公開されます。