Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

「財務大臣が辞任」ならよかった

2018-04-18 | Weblog
先刻、ある方面から「財務大臣が辞任」というふうに聞こえてきたので、それは素晴らしいと思っていたが、セクハラ発言疑惑が報じられた福田淳一財務次官が辞意を表明しただけだった。肩透かしというか、がっかり。

記者達のぶら下がり会見で、福田氏は、辞任について、「財務省が厳しい状況にある中で、職責を果たすことは困難」が理由だという。

「週刊誌に掲載された自分についての記事は、事実と異なる」「裁判の中で争っていきたい」という。
セクハラ疑惑の録音の音声については、「自分の声は自分の身体を通じて聞くので、録音された声が自分のものかどうかわからない」、「あんな発言をしたことはない」「あんな酷い会話をした記憶はありません」「接客業の人と話すことはある」「会話の全てを順番に取っているふうにもみえない、くっつけているように見えるので」と言う。

「報道が出ること自体が不徳のいたすところ」というが、森友問題も関係なく、ただ今回のセクハラ報道が理由というのなら、「セクハラをしていない」のなら、辞める必要はないのではないか。

これらも含めて「森友問題隠し」の延長のように思われてならない。
財務次官の任命責任があるから財務大臣が辞職すべしという言い方もわかるが、本来は「文書改竄問題」のほうが問われていることを、忘れてはならない。

麻生財務相も、何の必要もないのに、ただ世界政治の中で仲間はずれにされている印象を誤魔化すため、トランプに会いに行っている安倍首相も、とっとと辞めて、少なくとも、事実を明るみにできる体制にしてほしい。


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「日本の軍隊」は「国民の敵」を殺してきた。

2018-04-18 | Weblog
幹部自衛官が国会野党議員に「お前は国民の敵だ」と罵声を浴びせた。
自衛隊配備が強化されている今、文民統制が問われている。
「統幕長が謝罪、処分検討」というが、名前もきちんと出し、罷免はもちろん、自衛隊の内部問題にせず、「脅迫」行為できちんと裁かれるべきである。

新聞には「戦前の軍隊思わせる」という見出しもあったが、もしも「戦前回帰」が本当ならば、この事件が深刻なのは、「戦前の軍隊」が、戦時でなくとも、自分たちにとって邪魔な政治家のみならず、罪もない人々を殺してきたからである。

今は平和な町並みにしか見えない東大島界隈。関東大震災の翌々日、現在改装中の東大島文化センター付近から都営新宿線が地上に出るあたり(写真)の北側までが当時は空き地であり、中国人虐殺の最大の現場となった。

警察、自警団、民間人も加わったこの虐殺を主導したのは、当時の日本の軍隊である。

警視庁広瀬久忠外事課長直話(1923年9月6日)によれば、「9月3日大島町7丁目に於て鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名乃至400名3回に亘り銃殺又は撲殺せられたり。」とある。

また、『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」によれば、
「3時ごろ、先述の岩波少尉以下69名、三浦少尉以下11人の部隊が、人々が「約200人の鮮人団を連れて来て、その始末を協議中」のところへ現れ、これをすべて殺害したのである。」

資料は加藤直樹著『九月、東京の路上で』(ころから刊)より。



幹部自衛官罵声事件の概要は以下の通り。

防衛省統合幕僚監部指揮通信システム部に所属する30代の男性3等空佐が16日夜、参院議員会館近くの路上で、民進党の小西洋之参院議員に暴言を繰り返したことが分かった。小西氏が17日の参院外交防衛委員会で「『おまえは国民の敵だ』と繰り返し罵声を浴びた」と述べた。制服組トップの河野克俊統合幕僚長が同日、小西氏に謝罪。小西氏は国会で自衛隊のイラク派遣日報問題を取り上げていた。野党はシビリアンコントロール(文民統制)の観点から、国会で追及する方針。
防衛省によると、3佐は帰宅してランニング中の16日午後9時ごろ、小西氏と偶然会ったと説明している。(共同通信)
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震災の記憶を辿って町を歩きます

2018-04-17 | Weblog
これからしばらく、時間の許す限り、震災の記憶を辿って町を歩きます。

この震災とは、関東大震災のことです。

1923年9月。

写真は、東大島の、その年9月3日に事件のあった、中国人・朝鮮人虐殺現場付近。
慰霊碑のような、壁に刻まれた文字の跡。
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「ちびっ子相撲」の女子排除と、財務事務次官女性記者セクハラの相関性

2018-04-15 | Weblog
「ちびっ子相撲」に女児を参加させないよう要請した日本相撲協会の芝田山広報部長(元横綱・大乃国)は、その理由を「安全確保のためです」「男子はけがをしていいというわけではないが、女の子が万一、けがをして顔に(一生残る)傷が残ることになってはいけない。安全面も考えてそうなった」という。だから「女性排除ではない」そうだ。

この「ちびっ子相撲」の件は本来ここまで広くマスコミに出ることではなかったかもしれないが、京都府舞鶴市での巡業で、土俵上であいさつをしていた多々見市長が突然倒れ、看護師の女性らが駆け寄り救命処置をしている最中に、若い行司が「女性の方は土俵から下り てください」と場内アナウンスで促した事件が物議を醸し、その世論を受けて浮上したのだろう。
救命処置を妨害したとしか思えないこの事件には「命よりも『女人禁制』の伝統が大事なのか」と批判が集中して当然だったと思うが、女子の方だけに「顔に傷が残る」リスクを言うことも、明らかに「差別」である。危険があれば児童が怪我をしないように講じればいいだけのはずだ。やはりこの国は性差別廃止後進国だ。というか、後退している。

録音の公表で詳細が明らかになった財務事務次官の女性記者に対する「セクハラ事件」の報道を見ていると、セクハラという以上に「女性記者」に対する「差別」だと感じる。この事務次官は記者が男性であったときも「抱きしめていい」「胸さわっていい」「手、縛っていい」と言うのだろうか。まあ言う可能性だってあるわけだが。

女性記者の質問にうんざりな表情を見せる昨今の菅官房長官の表情など見ていると、おそらくこの国の「指導者」たちは、「男性記者なら何をされてもいいというわけではないが、女性記者が万一、セクハラをされて心に一生残る傷が残ることになってはいけない。安全面も考えてそうなった」と理屈を付けてでも、女性記者を排除したいのではないかと思う。

もちろんそれは、けがをするのが女性記者の方ではないだろうからだ!


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「小林丼」をいただきました

2018-04-14 | Weblog
作家の秋山真志さんのお誘いで、鎌倉の「ひろみ」で天丼を食べたことを告白しておかねばなるまい。

このお店は往年の鎌倉文士や映画屋さんが通った店ということで、小津安二郎監督が選んだネタだけが載っている「小津丼」、小林秀雄さんが選んだもの=アナゴ、魚、かき揚げが載った「小林丼」が、それぞれお二人の生誕百年のさいに、ご遺族の承諾を得て、裏メニューから表メニューになったのだという。
小津安二郎監督がアタマをツマにして酒を飲んでいたという「小津丼」はクルマエビ等が載っているということだったが、アナゴ好きの瀬戸内出身者としては、「小林丼」を選んだ。野菜(精進揚げ)やエビを拒んだ小林秀雄先生の心中は知る由もないが、おおいに賛同できる内容であった。
これぞ天丼、という醍醐味だった。江戸前といえば江戸前ということらしいが、魚もアナゴも柔らかく、衣が硬くなく薄くて好みである。しかも衣の質感はむしろ極めて肯定的に確実に口の中に残る。今まで食べたことのある天丼とは明らかに違うものだ。もうよそで天丼を食べたくない(次に鎌倉に来られるのがいつか、この店に寄る機会があるのか、コストパフォーマンス的にどうなのかという点で困難を伴うため、そんなことを呟いても、とうてい無理なのだが)。

さすが文士の裏メニュー、睡眠時間二時間半で原稿を仕上げたばかりの身には、染みた。
ただの食いしんぼではない。鎌倉文化に触れたのだ、と胸を張っておこう。

食べ物写真はなるべくアップしないという方針を破り、文化財保存ということで、例外的に掲載。
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久しぶりの小三治師匠

2018-04-14 | Weblog
柳家小三治独演会へ行きました。
逗子文化プラザ・なぎさホール。
作家の秋山真志さんが主宰される「鎌倉はなし会」。もう四十四回めになるという。

秋山真志さんのお誘いで参加させていただくのは、板橋文夫・梅津和時コンビのジャズコンサート以来。

久しぶりの小三治師匠、昨年に頸椎の手術が成功したということで、お元気そう。
長いマクラの後、「千早ふる」。中入りを挟んで、「野ざらし」。
語り口の見事さ、展開の鮮やかさは言わずもがな。いまや人間国宝ということになっているわけだが、独特のざらざらした感触がなくなることはなく、生々しいのが素敵だ。

私が80年代に小三治さんを取材した頃はバイクに凝っていて、ライダーズチーム「転倒虫」を率いて、かなり長いツアーもやっていた。
バイクに凝っていたのは四十から五十までだったということで(ヘルメットが重くて頸椎を痛めたのではないかと本人談)、御年七十八ということだから、私が某誌の仕事で何度か小三治さんを取材したのは、三十年前ということになる。
あの頃の師匠より今の私の方が年齢が上とは。
なんだか時間の経過の速さに唖然とする。

燐光群旗揚げ公演から何度か出演している美香がやっている北鎌倉の喫茶店「ミンカ」にぜひ行きたいのだが、また時間が合わず、未だに一度も行けていない。
明日提出の原稿もあり夕方までビシビシに仕事してからの鎌倉行きだが、ほぼ目途はついているとはいえ結局今また仕事に戻っているのである。
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大人達は、本当に未来を考えているのだろうか。

2018-04-13 | Weblog
文書を偽造した時点で誰かが責任をとらねばならないだろう。
偽造せねばならなかった事情があるほどの、その内容じたいが問題なら、そのことも裁かれねばならないだろう。
佐川という人が裁かれないと、この時点で決められる根拠はないはずだ。
理屈に通らないことを推し進めた人たちが正当化されていいはずもない。

子供達は見ている。
ズルができる、ズルしていいのだということを学ぶ。
そのことの重さを、感じないのだろうか。
大人達は、本当に未来を考えているのだろうか。


2月、チェンマイのセブンイレブンで買ったカップ焼きそばを、食べてしまった。
パッケージの写真のように具が一杯入っていたりはしない。
カップ焼きそばだけど湯切り口はない。
そして、からい。
セブンイレブンで普通に売っているからスタンダードのもののはずだが、からい。
タイの日々を思い出して、少し和む。
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安倍首相は観る映画を間違えた

2018-04-12 | Weblog
安倍首相は『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』を鑑賞したというが、観る映画を間違えたのではないか。
嫌な人間だが強権発動してうまくいったチャーチルの成功譚を観て、そうだ、人に何と言われようと嫌われようと突っ走っていれば何とかなるという誤った認識を強めてしまったらどうするのか。

官僚・政治家が隠していた文書を暴かれる『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』を観て、あちゃー、どうせ暴かれてしまったのだから、もう諦めた方がいい、と悟っていただきたい。

『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』には、劇作家でもあるトレーシー・レッツが出ている。
『8月の家族たち』で知られている作家だ。
『8月の家族たち』はブロードウェイ版のディナー時の母親の暴走のおかしさは、かなりのものだった。冒頭十五分がほとんど父親役のひとり語り(メイドに語りかけている)なのも忘れられない。

私はトレーシー・レッツ作品『BUG』の日本版を演出した。これは本当に面白い芝居で、日本版を出来たことは嬉しかった。圧倒的な情熱を必要とするこの劇を、また再演する日が来るだろうか。
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本多一夫さん吉川英治文化賞贈呈式と、下北沢にできる新劇場について。

2018-04-11 | Weblog
吉川英治文化賞の贈呈式に行きました。
受賞者の一人が、我らが下北沢の、劇場群のオーナー、本多一夫さんだったからです。
八つの劇場を抱える奮闘が評価されたのだ。
場違いなのですが、本多さんからご指名があれば、他に稽古本番などない限り、お祝いに馳せ参じましょう、

本多さん一つ目の劇場・ザ・スズナリができたのが1981年、三十七年前です。
私がスズナリデビューしたのは、その年です。

あのとき本多さんは四十六歳だったのですね。
今の私より十歳若い……!

お祝いの杯を近しい人たちと交わしながら、
演劇の楽しさ、なくなることのない夢、歳月の残酷さ、伝えていくことの難しさ、いろんなことをヒリヒリと感じます。

本多さんと同時受賞が、なんと、日本盲導犬協会。戌年の本多さんも喜んでおられたのかもしれない、ともあれ、しっかりとした盲導犬の闊歩する、珍しい授賞式でした。
そして、もう一人の受賞者が、写真画像再生の名手・村林孝夫さん。ちょっと説明しがたい感動的な仕事の方でした。
いろいろなことを知ることの出来た日でした。

で、本多一夫さんはこの賞をもらったことを機に(賞金を元手にということか?!)、早ければ年内にも、下北沢にもう一つ劇場を作るそうです。キャパ150、高さ5メートル。本多さんの下北沢九つ目の劇場。詳報はお待ち下さい。

なんだかいろいろなことを考えさせられると共に、我らが下北沢のことがこうして認められているということに、襟を正す気持ちにもなりました。
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天野天街ワールド人形劇の、到達点

2018-04-10 | Weblog
ITOプロジェクト「糸あやつり人形芝居『高丘親王航海記』」が、きょう10日マチネまで、東京 下北沢のザ・スズナリで上演されている。

原作:澁澤龍彦(「高丘親王航海記」)
脚本・演出:天野天街
ナレーション:知久寿焼
出演:飯室康一、山田俊彦、阪東亜矢子、植田八月、竹之下和美、永塚亜紀、よしだたけし

理屈はどうでもいい。
関西人形劇陣営の、スキルと、チャレンジ精神。
数多くの人形劇を手掛けてきた天野天街の、到達点。
見なきゃわからないです。

天野天街と初めて会ったのは、1985年、某ストリップ小屋である。
天野もストリップ初演出だったが私もストリップ小屋の看板ポスター描くのは初めてだった。

こんなすごい才能の人と三十三年も友達でいられたことを、感謝します。
一緒に呑んでるときは、ただのバカ同士なんですが、この人はやはり天才です。

4月20日~22日に伊丹アイ・ホールでの公演あり。
関西の皆さん、決してお見逃しなく。
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続・岡山出身の興行師・分島周次郎についての情報

2018-04-09 | Weblog
先のブログ「岡山出身の興行師・分島周次郎について情報をお寄せいただきました」
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/01cf58355e981d52ef90d75980b9abff
に、続くものです。

この写真は、「日本映画論言説大系」の、分島周次郎についての記事。

こちらは大岩さんが送ってくださいました。
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岡山出身の興行師・分島周次郎について情報をお寄せいただきました

2018-04-09 | Weblog
4月3日付の本ブログ「岡山出身の興行師・分島周次郎について、情報お寄せください」
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/3943378f07d2b6e3f8d16c0fdba2ea91
で、ネット上の皆様にお願いしたところ、多くの方が情報を拡散・シェアしてくださいました。

そして、なんと、岡山在住の大岩主弥さんが地元の図書館に足を運んでくださり、貴重な資料を送ってくださいました。
お力添えに感謝いたします。

今回の「情報求む」、のもともとは、作家・翻訳家で、日韓演劇交流センターでもご一緒している津川泉さん~のご相談を受けてのことでした。

せっかくいろいろな方に関心を持っていただいたので、この件の内容を紹介をしておきたいと思います。

いただいた資料は津川さんが関わっている高麗大学「在朝日本人情報事典」編集部にも送られることになります。
編集部から届いた「分島周次郎」の事項を、津川さんが訳して送ってくださいました。

その事項には彼の没年が明記しておらず、読み方も「わけじま」となっています。
津川さんの調べでは「ワケシマ」ですが確証は得られていないということです。

引き続き情報をお寄せいただけますと幸いです。

と、SNSの正しい使い方ができて、ちょっと嬉しいですね。




180406分島周次郎(ワケジマシュウジロウ) 1877~?

映画関係者
日本の右翼団体大日本国粋会幹部出身の興行業者だ。
日帝強占期植民地朝鮮の劇場経営主であり映画製作者であった。
日本、岡山出身として知られており、かつて満州に渡り、大連で暴力組織分島組を結成、
その後、青島を経て朝鮮に進出した。
彼が朝鮮に移住した時期について明確な記録は残っていないが、
1916年京城の日本人劇場寿座が京城劇場に名称を変更し、再開館した時、
劇場経営に関与したと分かっており、すでに1910年代には京城に地位を築いたと推定される。
1923年8月大日本国粋会朝鮮支部の主権を巡り、京城市内真中で広がった殺人未遂事件の主謀者として検挙された当時の新聞記事が「分島周次郎(46)は以前から朝鮮に国粋会を設立しようと尽力したが、これが成立後、京城本部の幹事長として非常に勢力を持ってきている」 (「毎日申報」 1923年10月6日)と伝えるとおり、1920年代中盤まで国粋会幹部として暴力事件を起こして物議をかもすこともした。
一方で彼は日帝強占期朝鮮興行業界全般に強大な影響力を行使した人物だった。
朝鮮劇場主協会会長を歴任、彼が経営に関与し、資本を投資した劇場は先に述べた京城劇場の他にも中央館、京城演芸館、楽天地、最初の演劇専門公演会場である東洋劇場などがあり、
このような施設をベースに日帝強占期朝鮮で公演された曲芸、演劇および歌舞伎、相撲などの演芸興行全般を掌握したといっても過言ではないほどであった。
1930年代からは朝鮮映画界に深く関与することになるが、特に1930年12月彼が所有した大日本映画興業株式会社の投資で京城府本町3町目京城劇場すぐそばの敷地に映画製作プロダクション京城撮影所を設立、本格的に映画製作者を務めた。
80坪余りの撮影場と30坪の現象室および俳優控室を備えたと伝えられる京城撮影所には李弼雨、朴齊行、キムソボンなどの監督が所属しており、このプロダクションは1938年高麗映画協会と東洋劇場に引き受けられるまで朝鮮最初の発声映画である「春香伝」(1935)をはじめとする多くの朝鮮映画を製作したことで有名だ。
京城撮影所から手を切った後も朝鮮興行業界に及ぼした彼の影響力は変わりなかったものとみられる。
1938年4月2日付「毎日申報」は朝鮮総督府が「国民精神総動員資源節約運動」への参加を促すために京城の各団体長を呼んで会議を開いたという消息を載せているが、ここに分島は興業組合長として実行委員名簿に名前を連ねている。
続いて同年5月14日「東亜日報」は京城興行協会会長として分島が京城内の映画配給業者と劇場経営者を集め、資源節約運動関連会議を主宰したと報道している。
1939年には江原道、鉄原劇場を買収、1943年6月27日「毎日申報」には大日本相撲協会会長として彼に関する短信がのせられたりもするなど、敗戦に至るまで朝鮮興行業界の大物として活動したという事実を確認できる。

【参考文献】
田中則広「在朝日本人の映画製作研究─?戟俳優・遠山満の活動をめぐって─」「メディア史研究」17(ゆまに書房、2004)、チョン・ジョンファ「植民地朝鮮映画の日本人たち:無声映画時期日本人製作会社を中心に」『日本語雑誌から見た朝鮮映画』 2(韓国映像資料院、2011)、キム・ナムソク「1930年代‘京城撮影所’の歴史的変貌過程と映画製作活動研究」『人文科学研究』33(江原大学校人文科学研究所、2012)



※付録として、『韓国演劇運動史』の記述も添付します。

五、東洋劇場と演劇大衆化
小説ひとつろくに読んだことがなく、劇場の敷居もまたいだことのなかったホテルのボーイ出身の洪淳彦が、当代の名花裵亀子を妻に迎え、芸術開眼したのは大変重要な出来事だった。なぜなら、彼が本格的な演劇専門劇場を一つ建てたからだ。彼は裵亀子少女歌劇団について日本を巡回し、興行の味を覚える一方、専門劇場の必要性も切実に感じたからである。
彼は一九三五年日本に帰国するや、劇場設立に着手した。日本で稼いだ金と義州の家を売り、平壌に用意しておいた店舗を整理した金は全部で四千ウォンだった。それだけではあまりにも足りなかった。彼は思案の末に、ヤクザの親分で京城劇場と京城撮影所を運営する大興行師分島(※周次郎)を訪ねて行った。洪淳彦の泣訴に感服した大陸浪人分島は、快く助けることを約束、商業銀行から十九万 五千ウォンを貸付けてくれた。西大門の坂道にある敷地四八八坪を用意した洪淳彦は直ちに劇場建設に入った。電車が霊泉まで往来したが、劇場周辺には家が何軒があるだけで、白菜畑が散在し、雨でも降ろうものなら、それこそ泥沼だった。
洪淳彦は愛する妻裵亀子の専用舞台を作るという夢を膨らませ、工事現場に野戦ベッドを持ち込み、泊り込みで監督をした。そしておよそ一年余りでこぢんまりした演劇専門劇場一つを建てることができた。劇場を作る時から協力した『僧房悲曲』の作家崔獨鵑(チェ・ドッキョン)は裵亀子側で親せきにあたり、洪淳彦とすぐに打ち解けた。崔獨鵑は演劇に対しては不案内だったが、芸術的感覚が優れていたので、洪淳彦に多くの助言をした。例えばトイレにまで口だしした。日本の劇場をまねて劇場を作った洪淳彦は、当初客席を一つでも多く作ろうと欲をかき、トイレを一つだけ置こうとした。
しかし、崔獨鵑は反対した。一千人余りが出入りする劇場にトイレ一つでは足りないという崔獨鵑の忠告に、洪淳彦は劇場には演劇を見にくるが、誰がトイレしにくるのかと反対するハプニングもあった。そのようにして完成された劇場は建坪三七三坪(二階)、客席六四八席に廻舞台とホリゾントまで備えたが、欠陥も少なくなかった。客席だけ増やそうとする欲に楽屋や小道具部屋がなく、裏にある古い家を一つ買いとって使い、椅子幅もとても狭く、図体が大きい西洋人はお尻が入らずに、そのまま帰ることもあった。
にもかかわらず、東洋劇場は演劇公演会場として、当時としては最高の規模と施設だった。銀行の金を斡旋した興行師分島が多くの株を持ったが、洪淳彦が社長に座り、崔獨鵑を支配人にして運営スタッフを整えた。一九三五年十一月の歴史的な開館公演は裵亀子少女歌劇団が引き受けたが、レパートリーは楽劇団らしく漫劇『ボンクラ二世』、寸劇『給料日』、舞踊劇『給水車』などと、少年管弦楽の演奏・独唱・合唱と「アリラン」などの舞踊で派手に繰り広げられた。完全に裵亀子好みで構成されたのだった。しかし、予想外に観客は多くなかった。そんな公演は久しく観客の心をつかむことはできなかったのである。すると東洋劇場は崔獨鵑を前面に出し、劇団のテコ入れに入った。
(柳敏榮『韓国演劇運動史』太学社・ソウル 174p)
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謎の「魔人屋」

2018-04-08 | Weblog
かねてから寄ってみたいと思っていた「魔人屋」に、先月、ついに行ったことを、ご報告しておこうと思う。

H監督の常連の店として、そこにあるとは聞いていたが、ほんとうに、あった。

ザ・スズナリから歩いて、すぐである。

もちろん、ダークサイドの側の、ザ・スズナリである。

「魔人屋」と書いて、「まんとや」と読む。素敵だ。

とにかくこれは、10日以上前の話。


日暮れ前、劇作家協会の花見にようやく行ったら、もうほぼ終わるところで、獺祭を一杯だけいただくことができた。

花見の後、今は亡き斎藤憐さん宅に立ち寄る。

二十五年くらい前の最初の花見の時にそうなってから、慣例になっていたのだ。


けっこう早い時刻に、平和に終わった花見だった(はずである)。

これからの時代、悩ましいね、ということにも話が及ぶ。

みんな思うところはいろいろあるだろうけれど。

書けていない、書けそうにない、書くことのしんどさに唸っている……、そんな劇作家たちの、愚痴を言い合っているような、ダメダメな日である。


それにしても、渡辺えりさんと憐さん宅で一緒にいると、時計の針が平気で二十年以上前に戻ってしまう。


写真と内容がほぼ関係なくて、すみません。
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桜はどこにあるのかと

2018-04-07 | Weblog
季節は過ぎ、桜はどこにあるのかという声をよそに、劇作家協会は今日、花見だそうです。
いつもの和田堀公園。
仕事の終わらない私は行けるのかどうか……。
風が強い悪天候……。
と思ったら、日が差してきた。
なにごとも前向きに考えよう。

写真は、先月、咲き始めた直後。
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下北沢駅前 犬の譲渡会

2018-04-05 | Weblog
週末なのか日曜日だけなのか確かめていないが、下北沢駅前で、犬の譲渡会が行われている。
犬だけなのかな。たぶんそうだ。

例の、北口の改札の真ん前に架設の公衆便所があるところの、その公衆便所の真裏の広場だ。
そこから、今はもうない小田急線の地上線路沿い跡地ギリギリまで、もともとは「戦後」を引き摺るような感じのマーケットだったエリアが、すっかり様変わりしてしまった。
今のところはフェンスで囲まれていて、ベンチもあり、時に仮設テントが建てられ様々なフェスティバルの時の本部というか詰め所にも使われている。

近所の、ホームセンターもついた大型スーパーでは、ペットショップがあって、小犬とかウサギとかがずらり縦横に積まれたガラスケースに住まわされて、売られている。ものによっては二十万も三十万もするようだ。血統書付きで、売られるために生まれ、育てられたのかもしれない。

犬やネコの飼い主は、子犬や子猫が生まれてしまった家から譲り受けて買い始めた人が多いはずだと思う。
衝動的に、引き受ける、と言ってしまった御仁もあるだろう。
未知の貰い手に出会うことができるこうした犬の譲渡会が行われているのは、いいことだと思う。

捨てられるのでもなく、金銭で交換されるのでもなく、街の一角の開かれた場所で、善意の引き取り手に出会えるのなら、それは幸せなことだろうと思う。
たまたまその広場を訪れたらしい若者達が、「あー、犬の譲渡会やってるー」と、とても肯定的に楽しそうに声をあげているのを聞くのは、とても下北沢らしい瞬間だった。
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