Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

岡山県立図書館で講演します

2014-09-27 | Weblog
岡山県立図書館「開館10周年記念県立図書館フェスタ」で講演します。フェスタは「読書の魅力再発見」がテーマ。
講演のタイトルは「本は時空を越えた『舞台』」。
13時開場、13時30分開演。終了15時30分。二階の多目的ホール。入場無料。
要予約となっていますが講演会は増席したらしく当日来ても入れるようです。 
http://www.libnet.pref.okayama.jp/event/2014/festa/festa01.htm

前日のきょう開かれた「ビブリオバトル」は、耳慣れない名称だが、おもしろそうな企画。「お気に入りの本を持ち寄り、その面白さを5分程度で紹介し、どの本が一番読みたくなったかを参加者に投票してもらい競うもの。当日は、中高校生バトルと一般バトル各20人ほどで争われる。「人を通して本を知る。本を通して人を知る」コミュニケーションとしても注目を集めている」そうだ。

岡山県立図書館は、来館者数、個人貸出冊数が、全国で1位。9年連続で全国トップなのだそうだ。
貸出数142万冊は、2位(大阪府立図書館)の50万冊を大きく上回り、100万人以上の入館者数、100万冊以上の貸し出し冊数は、全国で同館だけだという。全国で発売される新刊図書の約7割を購入、購入冊数も4年連続の首位。
岡山県人がそんなに本好きだったとは。いや、「図書館好き」なのか。うーむ。

フェイスブックや他の所では伝えていたのにブログに講演会の情報を出すのを忘れていました。
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「宇宙みそ汁」が現実に

2014-09-27 | Weblog
一昨年の夏、清中愛子さんの現代詩を原作に燐光群でつくった劇が「宇宙みそ汁」。もう二年前なのだな。
同作は、子育てに追われる料理中の台所にいる女性が宇宙飛行士のことを夢想するという内容が含まれているのだが、なんだか現実にはとっくに、「宇宙飛行士の方がみそ汁を食べる」ことになっているようだ。宇宙で食べるから「宇宙みそ汁」、理屈ではそうなる。

情報によれば、
宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、新たな「宇宙日本食」の認証に向けて応募された108品目の食品を審査し、「みそ汁」や「しょうゆ」などの33品目を選定した。
審査基準は、保存期間が常温で1.5年以上あるか/ナトリウム量が1,000mg以下か/調理が簡単か、など食品としての適性のほか、宇宙食分科会委員の試食による味や食感などの官能評価もある。
いままでわかめスープはあったが、新たにマルコメのみそ汁が候補になった。これまで認証された宇宙日本食は28品目あるが、今回は「みそ汁」「しょうゆ」「切り餅」「ちりめん山椒」など、日本の伝統的な食品が新たに候補として選ばれた。これらが認証されれば、「白いご飯とみそ汁」「正月はしょうゆ餅」という日本の食卓が宇宙で再現できそうだ、という。
選定された食品候補は今後、JAXA が定める宇宙日本食認証基準に則り、各種試験/検査を実施したうえで、認証に向けた手続きを行う予定だという。
すでに国際宇宙ステーション(ISS)に滞在するクルーに供給する宇宙食として、「宇宙日本食」を開発していて、その中にも「日の丸弁当とみそ汁」というメニューは含まれていたとも聞くが。

「宇宙船地球号」という言い方がある。現在、宇宙船の飲食用の水分は地球から持参しているわけだが、将来的には、宇宙ステーションという閉鎖空間では、水は「循環」させる計画になっている。
排泄物の中の水分を再利用するということだ。科学的にも研究されており、クロレラに浄化させるとか、植物に吸収させて再生するとか、いろんなやり方が取り沙汰されているらしい。
フリーズドライのみそ汁はそこから水分を補充し、みそ汁として再現されることになる。

なんとも不思議なようだが、現実の地球はずっとその循環で生きている。そのリアリティで言えば、まったく、資源というものは、太陽のエネルギーに支えられながら、一つの世界の中をぐるぐる巡っているだけだ。
私たちはそのことを忘れている。

核物質を「利用」するために活性化させたら、その責任もとらなければならない。循環のしようのない物質、循環させたら汚染される物質を、人為的に生み出してしまったわけだからだ。
それらを一箇所にまとめておくと不都合だからと勝手なことを言って、処理方法も定まらないうちからあちこちにばらまいて「貯蔵」したり、「廃棄」したふりをするためにいろんな所に散らかして焼却しようとしたりとかは、するべきではない。
日本政府・東電のそうした方針は凍結されるべきだ。少なくとも今は安易に動かそうとはしない方がいいはずだ。少しでも動かせばそのぶん散らばる。放置しておけということではない。最善策が見つからないうちに誤魔化すように広げてしまうと、取り返しのつかないことになるのではないかということだ。
地面の下に隠してどこだかわからなくなったり、既に杜撰な例が報告されている、薄めたつもりがばらまいていることになりかねない「除染」の状況じたいも、見直されるべきだろう。

報道によれば、原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物、いわゆる“核のゴミ”の問題を検討してたき日本学術会議の分科会が、原発の再稼働を判断する際、「新たに発生する核のゴミを暫定的に保管する施設を電力会社の責任で確保すること」を条件とすべきという報告書をまとめたという。これまでの原発の再稼働の前提となる審査ではこうした条件を求めていないが、本来は必要だったということだ。
今さら何を言っているんだ、と思う。
もはやそれどころではない。再稼働は不可能だとする見解が、あらためて実証されているということではないのか。
核のゴミは存在する。宇宙に捨てるわけにもいかない。地球という閉鎖系の中で処理しなければならないのだ。

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『おぐりとてるて』と『マハーバーラタ』

2014-09-22 | Weblog
こんにゃく座『おぐりとてるて』を俳優座劇場で観て、翌日、SPAC『マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~』を神奈川で観た。
なんだろうか。王子様お姫様夫妻が世間の常識とのズレというか心ならずも離ればなれになりまた復縁するという話を二日連続で観たわけで、なんだか不思議な気持ちになる。

こんにゃく座さんの誠実な作り方は、作・演出=立山ひろみさんの真っ直ぐさとも相まって、すがすがしい。音楽というテリトリーでの水準を求められることで一人一人が自立していることもその空気に繋がっているのだろう。

『マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~』の祝祭劇としての明るさは、宮城聡氏が二十年前のク・ナウカ『トゥーランドット』以来のユーモアを素直に自分のものにしているところと、妖艶さを越えてあらためてシンプルな芯に磨きがかかった美加里はじめ、先輩連がチームの中で牽引している身体に根付いた美意識の浸透からだろう。終演後、短い時間だが宮城氏と久しぶりに話。

最近も、幾つか舞台は観ている。

中津留章仁新作『八月の雹』。執念深い作り手である。新人俳優たち相手でも等身大シフトのさいの中津留流を押し通した前半が、圧巻。

SIS Company『火のようにさみしい姉がいて』を観て、あらためて、清水邦夫さんの戯曲が、新劇世代の連帯感に依拠するところ大なのだと痛感した。この場合、「新劇世代」というのは揶揄ではない。その時代が確実にあったという事実と、清水さんのスタンス、一人の作家の想像力が時代を突き抜けようとすることについて、あらためて考えさせられた。

『アジア・ミーツ・アジア』で、久しぶりにDA-Mに行って、ベルリンにいるはずの千野秀一さんとバッタリ、立ち話が長引いた。千野さんは異国で音楽家として生きるスタンスをもう5年続けている。

ミュージシャンといえば、映画は『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』というのが、少なくとも観ている間は面白かった。コーエン兄弟の映画は『ファーゴ』以外は観た後に何も残らないのだな。

ここ一ヶ月は、自分の稽古場以外の仕事が多く、ひとのつくったものばかり観ている気がする。今年はオーストラリアから帰ってくるまで、本当に気が抜けなかったので、まあそういう時期も必要ということだろう。

写真は『おぐりとてるて』の五人合体型・千手観音。登場で確実に舞台は華やいだし、写真にしてもありがたみがありそうだ。
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『イラク チグリスに浮かぶ平和』のローアングル

2014-09-20 | Weblog
綿井健陽監督の映画『イラク チグリスに浮かぶ平和』を、夕方の試写で観る。
現在のバグダッドから遡る。アメリカ軍の手配によって「民衆」が倒したサダム・フセイン像の跡。台座だけがわざと残されている。像の首にロープをかけた青年は今何を感じているか。イラク戦争開戦からの10年を追うドキュメンタリー。
2003年3月、綿井監督はバグダッド市内のホテルから、チグリス川越しに米英軍による空爆の開始を目撃する。その前から、人々の声と姿を収め、渦中で取材を続けていた。
雑然とした世界を点描する、よくあるドキュメンタリーかと思って見始めると、空爆翌日、病院で血だらけの娘を抱えた男と出会い、思いがけず「ストーリー」が動き出す。
監督とほぼ同い歳のアリ・サクバン。ナレーターも説明字幕もないまま、監督自身も登場人物として浮かび上がってくる。アリとその家族を中心に、イラク戦争開戦後のバグダッドの人々の姿を追う。
戦争によって痛めつけられ、多くの命、更に生活、経済、身体、犠牲になったものはもとに戻ることがない。米軍の撤退により、宗教対立による国内紛争、「テロ」の乱発。治安は悪化する一方。過酷なイラク市民たちの現実は今も続く。
両足を失い車椅子テニス・プレイヤーとなった女性は決然と言う。「アメリカのせいだ。加担した日本にも責任がある」。
綿井監督とアリ・サクバンの友情が軸になってくる。電話でアリの消息を聞くシーンはこの映画の中で唯一やや演出過剰なのだが、それが監督自身が当事者であることを証明していて、その後に映画が意志を持って動き出す息づかいは、「ストーリー」を越えた何かだ。
「チグリスに浮かぶ平和」というタイトルがイメージではなく具体なのだと知る瞬間も含め、淡々と語るからこそ突き刺さる現実がある。
試写室で共同通信の新崎さんにばったり。時に共同通信の仕事にも協力していたという綿井監督も一緒にお茶を飲む。映画で多用されるローアングルについてなど聞く。技術的な理由もあるが、このローアングルに監督の個性、相手に対する皮膚感覚が表れている。
この映画の配給は、『標的の村』を手掛けた東風さんである。監督は前日、『標的の村』の三上監督と東風事務所でばったり会ったという。世の中は繋がっている。久々にお話しした新崎さんは新聞労連の委員長になった。お互いそんな年齢なのだ。思いがけず時も過ぎている。
『イラク チグリスに浮かぶ平和』予告編は、以下から見られる。
http://www.youtube.com/watch?v=pmb7ucZJoL0
以下が、公式サイト。
http://www.peace-tigris.com/

その足で青年劇場『羽衣House』を観る。被災地からの避難家族を受け入れる宿泊施設が舞台。
作者の篠原久美子さんとご一緒している「非戦を選ぶ演劇人の会」では、イラクのことも取り上げている。「非戦の会」じたいがこの劇に繋がる震災や核のことも取り上げている。こんな取り合わせの日だったので、なんだか試写で観た内容と篠原さんの描いた世界が意識の中で混在してしまう。
劇作家協会がらみも含めて、篠原さんとは斎藤憐さんとも一緒のつきあいだったからか、途中でふと「斎藤憐ならこの劇をどう見ただろうか」と思う。その後はなんとなく斎藤憐の視線のようなものを感じてしまう。それが、憐さんではなく、憐さんより更に先輩である、この劇の演出・ふじたあさやさんの視線であると思い当たる。あさやさんの包容力に憐さんの魂が寄り添っていたのだろう。
我々はものをつくっているのだが、どのような人間関係の中に生きているかは、必ず浮かび上がって見えてしまうはずなのだ。憐さんが亡くなられて来月で三年。人間関係に過去形はない。
ふじたあさやさんは八月にお目にかかったとき「坂手くん、『羽衣House』の演出は能の形式を取り入れることにしたのだよ、フフ」と笑っておられたが、人物たちがすり足で登場してきたときには「おーい!」と突っ込みたくなったものの、すぐに疑問は氷解。主眼は、ト書きを俳優たちが読むところにある。能で言う地謡。大まじめにそれをすることが、劇の喜劇性を底上げしている。


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松元ヒロさんに刺激を受ける

2014-09-17 | Weblog
連休最後の日、ご近所で行われていた、松元ヒロさんのライヴへ行った。クランク・インしてもう三年になろうとする映画『ザ・思いやり予算』の撮影を兼ねた、ちょっと特殊な形の、クローズドの集まりである。五十人くらいしか入らない会場だから、ずいぶん贅沢な密度だ。
前半に「ジンタらムータ」の演奏があって八十年代に私も持ち歌の一つであった『不屈の民』を聴き、それが不思議なウォーミングアップ?となる。
松元さんはここしばらくの世の中の出来事を、ご自身の生い立ちから始めて、諸々の事象と組み合わせ、一時間以上にわたって、笑わせ、考えさせ、語りかけてくる。たいしたものだ。ベタな駄洒落を混ぜるバランスがまた、いい。ご本人のネタなので、紹介するわけにいかないのが残念。
最後に十八番の「憲法くん」も予定外だったけれど特別にやってくれる。井上ひさしさんを冷やかすところは、どうも松元さん私がいることに気づいていたのかいないのか、ちょっとためらいがち?だったような気もするが、私も笑ってしまった。井上さんお許しください。
松元さんが独立した後だが「ザ・ニューズペーパー」の皆さんが非戦を選ぶ演劇人の会のイベントに飛び入りのように出演してくれたことがあるけれど、松元さんは私が非戦の会作成による「憲法9条シャツ」を着ているのをめざとく見つけ、なぜか私の写真を撮ろうとなさるので、私もツーショットに収まる。
……とても刺激を受けたし爽快だった。全国で毎日のように舞台に立っている松元さんだが、来月初旬には紀伊國屋ホールでも独演会があります。

沢田研二さんが新曲『一握り人の罪』を発表されていた。「東電」と固有名詞を入れて批判し、「いつか原発廃炉に」と歌い上げる。さすがである。

この夏は、劇作家協会の言論表現委員会で、福井健策さんからのレクチャーも受けた。
「芸術はどこまで自由か」「憲法は我々に必要か」という題で、協会員が意外なほど多く聴きに集まった。以来、福井さんが印象に残る井上ひさしさんの言葉として挙げていた「民主主義というのは言葉の戦争ですから」というフレーズが、様々な局面で、異なる意味で想起される昨今である。

それぞれの表現でやれる限りのことをやっていくべきなのだろう。

最近ブログを新たに記していないので(「更新」という言葉は違和感があるので使わないでいる)、周囲から「いくらなんでもサボりすぎ」と言われる。
どうやらこういうことは習慣である。真冬のオーストラリア、極寒・零下のキャンベラで体調を崩してから、なんとなく遠のいていた。
またぼちぼち書き込んでいけるといいのだが。
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南京事件を描いて未公開だった映画『ジョン・ラーベ』、下北沢で上映

2014-09-06 | Weblog
ドイツ・フランス・中国合作映画『ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー~』を観た。
ジョン・ラーベは、ドイツのジーメンス社南京支社長・ナチス党員。1937年12月の南京事件当時、非武装中立の「南京安全区国際委員会」委員長として、20万人の中国の民間人を救うため奔走。持病の糖尿病と闘いながら、多くの中国人の命を救った。事件を記録した彼の日記は90年代半ばに見つかり、それが原作となった。2009年のドイツ映画賞で7部門中4部門と最多の賞を受賞したという。
基本的にはドイツ映画だが、国際色豊かだ。アメリカからはあのステーブ・ブシューミが医師の役で出て、珍しく普通の二枚目を演じている。小柄にも見えないのだ。
「南京事件」(南京虐殺)を描いているということで、日本の配給会社はどこもこの映画を買わなかった。若い女がいれば連れ去ろうとし、「百人斬り競争」などの殺人、暴行、破壊を繰り返す日本軍の姿が、繰り返し出てくる。
ラストの字幕で「30万人」という中国政府の公式見解と同じ犠牲者数が示される。配給会社が公開を危ぶんだ一番の理由はそこかもしれない。
ナチス党員であるラーベの複雑な立場、逃げ腰だったのに目の前にある現実を見て自らを犠牲にして抵抗することを選ぶ姿が描かれる。ハーケンクロイツを楯にして中国人を守ろうとする機転は映画の見所だが、それにしても皮肉な話だ。南京事件をヨーロッパ、西洋人の視点で捉えているわけだが、過去を清算しようとする今現在のドイツ人の姿勢がよく伝わってくる。ヨーロッパ的個人主義が美化されすぎていることに、ちょっと鼻白む所もあるのだが、それが過去に向き合う知恵なのだろう。
かつて右翼団体によってスクリーンを切られるなどの上映妨害が起きた『南京1937』(95年)は映画としての出来はいまいちだったが、『ジョン・ラーベ 』は、よくできている。
そして、「南京事件」を世界がどうとらえているかが、よくわかる。その「常識」が示される。けっしてそのことに背を向けてはならない。世界の歴史的な認識を見ようとしない日本がいかに孤立しているかを知るためにも、日本じゅうで観られるべき映画だ。
ゼロ戦の操縦士をヒーローに仕立てた映画が大ヒットすることにケチを付けても仕方がないが、その同じ国でこの作品が映画館で上映できないということじたいが、右傾化の止まらない日本の現実を示しているのだ。

2014年5月、江戸東京博物館ホールで行われた上映が日本初公開。配給会社による劇場公開ではなく、市民が上映権を購入しての自主上映会だった。
その後も文京区のシビックホールなどで上映されたが、なんと下北沢でもスクリーンで観られるという。
情報は以下の通り。

………………

映画「ジョン・ラーベ」12月9日(火)18:30~ 北沢タウンホールでの上映会のチケットを、9月1日(月)10:00~ カンフェティにて発売します。インターネットまたは電話でご予約の上、セブンイレブンで代金引換で発券。
【ネット予約】→ http://www.confetti-web.com/detail2.php?tid=25841
【電話予約・平日10:00~18:00】 → 0120-240-540

http://www.confetti-web.com/detail2.php?tid=25841
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「非戦を選ぶ演劇人の会」寄付の防滴スーパーメガフォン、辺野古の海に登場

2014-09-05 | Weblog
安倍政権は名護市民・沖縄県民の反対をよそに、直接届けられた稲嶺氏の普天間飛行場の県内移設反対を訴えた建白書も無視、工事開始に向けて海底調査が始まり、辺野古の海には海上保安庁のボートがびっしり浮いている状態となっている。
かつて沖縄戦で沖縄の海を軍艦が取り囲んだ光景が繰り返されていると言われれば、まさにそうなのだろうと思う。
この間の情報も資料は集めているのだが、進行中のことを過去形のように紹介するのは虚しい。辺野古の様子は日々ネット等で見られるだろうから、ここでくどくは言わない。

「非戦を選ぶ演劇人の会」が、辺野古への新基地建設反対の海上行動に対して、防滴スーパーメガフォンを寄付した。宮城康博氏が中継してくれた。(写真)
基地建設反対行動をしているカヌー隊の曳航などをしている動力船が使うことになる。
現在メンテナンス中の「平和丸」ではなく、基本的に「勝丸」に配備されることになった。平和丸には船にスピーカーとアンプが備え付けられたので、カヌー隊と行動を共にすることの多い勝丸に使い勝手のいい強力なメガフォンがあることが理に適っている、ということだ。抗議と阻止のメッセージを発するだけでなく、カヌー隊の安全を守るためにも活躍してくれるだろうという。
東京の演劇人はなかなか沖縄に行けないが、この防滴スーパーメガフォンに思いを託した。

沖縄のことがヤマトのマスコミでこれだけ報道されないこと自体も理不尽だが、腹が立つのは村井宮城県知事の発言だ。自分が原発の核廃棄物最終処分場の調査受け入れを表明したのは本人の勝手だが、宮城県民が全て納得しているはずもない。村井知事は自分のところの事態も収拾できないでおきながら、「沖縄県民の皆さまも理解できない部分があろうと思う」「(原発処分場問題と)辺野古とは全く次元が違い、同列に扱うことはない」としつつも、「沖縄は全体の利益のために辺野古新基地を受け入れるべきだ」と公言。結局は同列に見ている。圧倒的多数の県民が辺野古新基地建設を拒否している現実をわざと軽く見て、自分の失政を誤魔化そうとしているのだ。
「本土全体の利益のために沖縄は犠牲になれ」という考え方は、某ニュース番組で、良識派と思われた司会者が「沖縄の人たちには我慢してもらうしかないですね」と発言した件と似ている。ヤマトがそんな認識でいると思われること自体が恥ずかしいことだ。

そして米軍普天間飛行場に配備されているオスプレイについて、2015年度から自衛隊オスプレイを佐賀空港に配備しようとする防衛省の意向を踏まえたうえで、「暫定的に」と言いつつ、米国防省を頭越しにする性急さで、佐賀空港を使用する方針が打ち出されている。
安倍首相は「沖縄の負担軽減のために政府としてできることは全て行うのが基本姿勢」と言ってのけた。
それができるのだったらはじめから辺野古に移設する必要などない。そしてもちろん、佐賀の人たちも本気で反対すべきだ。オスプレイの居場所はこの国にあってはならないのだ。

東村高江でも、新しいヘリパッドの工事が進められている。完成してしまえば間違いなくオスプレイが来る。
反対する人々がクルマを縦列に止め封鎖している、「N1地区」工事車両の出入り口とされている県道70号沿い、林道入り口にあたる未舗装の路側帯がある。防衛省は、その場所について、「日米共同使用を9月内にも見直し、住民らの立ち入りを制限する方向」だという。関係者によると、共同使用の解除ではなく、使用条件の見直しで検討を進めている。見直しだと、日米合同委員会の合意が必要なくなるという理屈らしい。

高江は今、SLAPP訴訟の当事者でもある伊佐真次さんが村会議員になれるかどうか、瀬戸際である。投票は7日。
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