川瀬巴水(かわせはすい)―明治16(1883)年、東京市芝区露月町(現在の港区新橋5丁目)に生まれる。
幼い頃から絵を好み画家を目指したが、家業を継ぐことを望む両親に反対され、ようやく鏑木清方に入門したのは
27歳の時であった。やがて伊東深水の木版画に感銘、版元・渡辺庄三郎と組み、日本全国を旅しては
スケッチをし、独自の構図や色の版画を作り続け、「新版画」を確立した。
生誕130年とかで、全国各地で作品展が開かれるようだ。
昨年の11月26日から千葉市美術館で開催されていたが、終わりが
近づいてあわてて出かけるといういつもの悪しきクセ、今日やっと観て
きました。最終日は19日。
千葉市美術館が少々遠いのも、オミコシが上がらなかった理由の一つ。
今日はOTTO がお休みだったのでアッシー君をお願いしました。
入場券の絵は「雪の増上寺」・大正11年
「芝増上寺」・大正14年
これも同じ雪の日の増上寺。芝の生まれですから増上寺は遊び場
だったのでしょうか。東京二十景の一枚ですが、彼の作品中、
3000枚というダントツで一番売れた作品
ポスターに使われた「尾州半田新川端」・昭和10年
「清洲橋」・昭和6年
隅田川にかかる橋の中で一番好きな橋。モダンな橋だとおもっていたけれど、
随分古くからあったんだァ。下を行く舟の情緒のあること!近代的な橋と江戸時代と
変わらないような舟の対比が何ともいい。
「時雨のあと(京都南禅寺)」・昭和26年
晩年期の作。この頃は華やかな作品が多いような気がする。
「錦帯橋の春宵」・昭和22年
そして以前にも描いた平泉金色堂をおなじ構図で描き、石段を
登る二人を一人の托鉢僧に変えた。自分の姿としたのではない
かという謎めいた絵を残して昭和32年に病でこの世を去った。
284点もの作品が時系列的に展示され、見ごたえがありました。
特に東京の大正・昭和初期の風景には心のふるさとおような
懐かしさを感じ、のんびりとした気分に浸れました。
幼い頃から絵を好み画家を目指したが、家業を継ぐことを望む両親に反対され、ようやく鏑木清方に入門したのは
27歳の時であった。やがて伊東深水の木版画に感銘、版元・渡辺庄三郎と組み、日本全国を旅しては
スケッチをし、独自の構図や色の版画を作り続け、「新版画」を確立した。
生誕130年とかで、全国各地で作品展が開かれるようだ。
昨年の11月26日から千葉市美術館で開催されていたが、終わりが
近づいてあわてて出かけるといういつもの悪しきクセ、今日やっと観て
きました。最終日は19日。
千葉市美術館が少々遠いのも、オミコシが上がらなかった理由の一つ。
今日はOTTO がお休みだったのでアッシー君をお願いしました。
入場券の絵は「雪の増上寺」・大正11年
「芝増上寺」・大正14年
これも同じ雪の日の増上寺。芝の生まれですから増上寺は遊び場
だったのでしょうか。東京二十景の一枚ですが、彼の作品中、
3000枚というダントツで一番売れた作品
ポスターに使われた「尾州半田新川端」・昭和10年
「清洲橋」・昭和6年
隅田川にかかる橋の中で一番好きな橋。モダンな橋だとおもっていたけれど、
随分古くからあったんだァ。下を行く舟の情緒のあること!近代的な橋と江戸時代と
変わらないような舟の対比が何ともいい。
「時雨のあと(京都南禅寺)」・昭和26年
晩年期の作。この頃は華やかな作品が多いような気がする。
「錦帯橋の春宵」・昭和22年
そして以前にも描いた平泉金色堂をおなじ構図で描き、石段を
登る二人を一人の托鉢僧に変えた。自分の姿としたのではない
かという謎めいた絵を残して昭和32年に病でこの世を去った。
284点もの作品が時系列的に展示され、見ごたえがありました。
特に東京の大正・昭和初期の風景には心のふるさとおような
懐かしさを感じ、のんびりとした気分に浸れました。