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大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

らいと古典・わたしの徒然草67『賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり』

2021-04-09 06:34:14 | 自己紹介

わたしの然草・67
『賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり』  



第六十七段

 上賀茂神社に在原行平、在原業平兄弟が祀られている。二人の事には踏み込みません。ただ平安初期の公家であり、弟の業平は六歌仙の一人であることを示しておきます。要は、四百年後の兼好の時代では、すでに神として祀られ、その社が上賀茂神社の中の岩本社と橋本社にあったということです。

 問題は、ここからです。

 兼好の時代には、すでに、どちらに行平、業平が祀られていたか、一般には分からなくなっていたことです。

 ある日、兼好は上賀茂社に行き、年配の神主に聞いて、やっと分かった。

「さすが、専門の神主やなあ……!」

 そう感動したことを書いたのが、この六十七段です。
 業平などに特別の興味が無ければ、読み飛ばしてしまう段ですね。

 しかし、この段には、日本人の宗教観、社会観が読み取れるのです。

―― 何事のおわしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる――

 有名な西行法師が伊勢神宮をお参りしたときの、有名な歌です。

 伊勢神宮は天照大神が祀られていて、日本の神社の総元締めのような存在で、西行ともあろう教養人が、それを知らないわけはありません。しかし、西行は「何事のおわしますかしらねども」とカマしたのです。
 なぜか、西行は、日本人の宗教観、精神性を、この三十一文字に籠めたのです。
 古来、日本の神道には教義がありません。世界に類を見ない大らかな宗教です。
 古代人は、山や岩、滝、あるいはなんでもないところに神聖さを感じたら、もう、そこに神が在ました。しめ縄を張り、掃き清めれば、もうそこは神域になります。

 わたしの家の近所に石切神社があります。その参道の土産物のオッサンが、隣の空き地に参詣者が立ち小便をするので困っていました。なんせ参詣者にはご老人が多く、無理のない話ではあるのですが、オッサンにとっては迷惑千万。そこで器用なオッサンは、小さな鳥居を作り、立ち小便される場所に立ててみました。すると効果覿面。立ち小便はピタリと止まった……のみならず、鳥居のところに、お賽銭を置いていく人が現れ、それがけっこうな金額になります。そこでオッサンは、さらに鳥居を立派にし、賽銭箱を置きました。そして賽銭は、店の売り上げに匹敵するようになりました。
 数ヶ月すると、オッサンは店をたたみ、こざっぱりした社殿を建て、そこの神主に収まってしまいました。もう三十年も前の話ですが、実話です。
 ちなみに、この石切神社がある生駒山系には六百あまりの宗教法人が存在する一大宗教山系であります。

 日本人の神道信者と仏教徒を合わせると、日本の人口の倍になるらしい。

 普通、新しい宗教が入ってくると国際的常識では、宗教戦争になり、新旧どちらかが駆逐されてしまいます。我が民族は、それを、ほとんど争いを起こすこともなく融合させてきました。

 神仏習合ですね。

  飛行機神社は飛行機の原理を発見した二宮忠八翁が御神体でありますが、たいていの航空関係者は二宮翁を知らず、「飛行機の神社」とあがめています。
 芥川の短編に、タイトルは忘れましたが、道で出会ったキリストに、日本の神さまが「どうぞ、ご自由にやりまはれ」という場面があります。ちなみに、日本の全宗教信者に占めるクリスチャンの割合は百分の一あまりでしかありません。どんな宗教が入ってきても、この百分の一を超えることができないようです。
 ちなみに、自分が神道の信者、仏教徒であると自覚している日本人も多くはありません。初詣に神社にいけば、もうそれで神道の信者です。お葬式を仏式でやれば仏教徒です。で、日本人にそう言うと「ああ、そうかな」と言います。しかし、結婚式をキリスト教式でやったり、クリスマスを祝って、「あなたは、クリスチャン?」と、聞くと「……それは、ちゃうなあ」ということになり、教会もそれでは信者としては認めてくれません。

 なんだか、与太話のようですが、これが日本人の精神世界なのだと思います。そして、日本のthe national polityの根元が、ここにあります。

 わたしは乃木さんという人が、その名前とともに好きです。乃木坂と聞くだけで、秋空の下に枯れた緩やかな坂道が思い浮かびます。その乃木さんの旧宅が乃木神社になり、その周辺を、なんとなく乃木坂というようになりました。わたしは、『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語(旧題 なゆた 乃木坂……)』という小説を書いたことがあります。脱稿した、その日、乃木坂46の発足が発表されました。
 これはパクリとかアヤカリとか言われるだろうなあと思いましたが、日本人の宗教観を言い訳に、そのままにしました(^_^;)。

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らいと古典・わたしの徒然草66『花に鳥つくるすべ』

2021-04-08 06:12:58 | 自己紹介

わたしの然草・66
『花に鳥つくるすべ』  


 

 第六十六段「花に鳥つくるすべ知り候はず、一枝に二つつくることも存じ候はず」

 この段は難しいですね。岡本関白殿(近衛家平)が鷹匠に、鷹狩りの獲物を誰かに(天皇?)献上しようとしたことを書いたものです。
「花のついた枝に二羽くっつけて、差し上げて欲しいねんけど」
 関白さんは、自分のアイデアを、家人である鷹匠に言いつけました。ところが鷹匠は、こう答えました。
「花に鳥つくるすべ知り候はず、一枝に二つつくることも存じ候はず」

 口語訳

「花のついた枝に鳥を付けて差し上げるような作法は知りまへんなあ。一枝に二羽くっつけて差し上げることもマナーにはおまへん」
 そう言って、鷹匠は、主人の関白さんに作法を、こんこんと説いて、きちんと作法通りやってのけた。それを兼好のオッチャンは「偉い鷹匠や!」と感心しているのであります。有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しい兼好ならではの段であります。

 有職故実というのは、礼儀作法を含めた古来のシキタリのことであります。「有職雛人形」などの言葉に、現在でも、かすかに言葉の意味が伝わっております。
「有職雛人形」とは、古来からのシキタリにのっとった、由緒正しいお雛様である……と、いうことですね。
 しかし、シキタリというものは、時代によって微妙に変化します。例えばお雛様は、お内裏さまが、向かって左。お雛様が右側となっていますが、これは明治に入ってきた欧米のシキタリを真似たもので、それ以前は左右が逆であります。
 時代劇で、武士が正座し、刀を右に置くのは江戸時代に入ってから。それまでは胡座で、刀も左側に置いていました。これは、何かの拍子でキレた武士のオッサンが、勢いで刀を抜いて相手に斬りかかりにくいようにしたものであります。正座のまま刀を抜こうとしたら、胡座より刀を構えるのに時間がかかります。右に置くのもそう。いったん左手に持たなければ刀は抜けません。そのわずかの隙に相手は、身を引けるようにして、「カッとなって切りました」ということが起こりにくいようにしてある。

 シキタリは、長い時間をかけて変化し、取捨選択されてカタチになっていくものです。

 戦後……戦後とは、昭和二十年に終わった大東亜戦争の後の時代を指します。で、戦後、このシキタリが日本史上の最速の早さで、変化し……いえ、その多くは無くなってしまいました。
 分かり易いところでは、トイレ。名前からして変わってしまいました。昔は「便所、雪隠、ご不浄、はばかり、東司、厠」と様々、今は便所以外は通用しないでしょうね。そして、トイレそのものの様式であります。シャレではないが洋式になってしまいました。前世紀末から、これにウォシュレットなるものまで、シキタリ化してきました。
 結婚式、葬式などの変化も著しいものがあります。シブチンの晩婚であったわたしなど、結婚式そのものをやっていません。めんどくさいことと、費用の節約のためであったが、これで縁が切れてしまった親類もいて、今は、いささか反省しております。

 無くなったシキタリで、わたしが一番気にしているのは、卒業式のシキタリです。卒業式という言葉そのものが、公立の学校からは消えてしまいました。卒業証書授与式といいます、なんだか運転免許の交付のように軽々しい言葉になっています。しかし、みんな言葉では「卒業式」といいますね。「卒業証書授与式」という軽い言葉は、司会の教頭が開式と閉式に言うだけです。女性警官を婦警さん、女性看護師を看護婦さんというシキタリも、日常では、まだ生きていると思うのですが。女警とは言いませんよね。

 卒業式で無くなったシキタリは、別れの歌としての『仰げば尊し』『蛍の光』であります。わたしが、ハナタレであったころには、このシキタリは生きていました。昭和四十年ごろから無くなってきて、これは、式日に日の丸を掲揚しなくなった時期と重なると感じます。柔らかくは「市民運動」「学生運動」の活発化の中で。アカラサマには、社会の心情的左傾化の中で消えてきてしまいました。

 卒業式には、生徒からアンケートをとり、年ごとに卒業ソングを決めています。たいていその年の流行歌から選ばれます。個人的に歌としていいなあと思う歌もありますが、卒業式は、やはり明治このかた、培ってきたシキタリとしての、『仰げば尊し』『蛍の光』であると思うのですが。

 ようやく、『君が代』がシキタリとして日の目を見始めました。国旗、国歌を軽んずる風潮は、時として、海外邦人は奇異の目で見られたそうです。スポーツ競技の開会式で、たいていの国では国歌を起立して唄うのに、日本人だけがボサーっと座ったままで、叱られたこともあるそうです。前世紀、長野オリンピックで国旗を「選手団の旗」国歌を「選手団の歌」とアナウンスし物議をかもしたこともありました。たしか、この大会では、こともあろうに対立する国の国歌を間違って流してしまったことがあったと思います。ある国の国旗は掲揚の仕方(縦か横か)によってデザインが違うものがあります。横用のものを縦に掲揚して、これも苦情が来ました。
 その昔、東京オリンピックでは、国旗を上下逆さまに掲揚しないように、停め金具を旗の上と下で別ものにして事故が起こらないようにしたそうです。そういうシキタリに関する気配りが岡本関白殿(近衛家平)のように希薄になってきたように思います。

 他にも、エリザベス女王が来日された際、イギリス国旗を上下逆さまに掲揚したことがあるそうです。札幌オリンピックでは、日の丸飛行隊と呼ばれたスキージャンプの選手が、優勝の喜びのあまり日の丸をかざして滑走したところ、その日の丸をトリミングして消した某新聞もありました。で、以来、今日にいたっております。

 学校の教室を生徒達に掃除させるという有職故実が生きています。

 欧米の国々には無いシキタリのようですね。なかなか良いシキタリだというので、エジプトでは日本式を取り入れてやっているようです。やはり、シキタリにうるさい人間の一人ぐらいは、社会や組織には必要なのかと思います。
 

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らいと古典『わたしの徒然草・65 今用ゐるなり』

2021-04-07 06:47:15 | 自己紹介

わたしの然草・65
『今用ゐるなり』  



徒然草 第六十五段

 この比の冠は、昔よりははるかに高くなりたるなり。古代の冠桶を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。

 ここで言う「この比」とは、兼好が生きていた十三世紀の初め頃。室町幕府は、できたてのホヤホヤで、まだ、その権力基盤は固まっておらず。朝廷も南北朝に分かれ、互いに正統を主張。要は社会不安の時代であります。
 で、そのころの都のファッションは烏帽子や冠が高く(長く)なる傾向があったようです。
 昭和の御代に、景気が悪くなると、スカートの丈が長くなると言われたことと似ています。

 むかし、こんな分析をする人がいました。

 スカートが短くなれば、女性は下に穿くパンツに気を遣い、単価の高いパンツを買うようになる。千円で三枚なんて物には目もくれず、三千円ぐらいのパンツを平気で買うようになる。で、その経済効果は、年間で一兆六千億円にもなるとか。
 しかし、これは昭和の伝説で、バブルこの方、女のスカート丈は短いままです。正確に言うなら、ナンデモアリの時代になった。短いスカートやチュニックの下に、平気でGパンを穿く。ひところ、男がスカートを穿いた時期もあった……と、思って検索したら、ネットで堂々と「現代のモノ」として、男性用スカートを売っていました。数年前には、クールビズの一環として、大まじめに「男性用スカート」が研究されたりもしました。

 男性読者の九割はスカートなど、お召しになったことは無いと思います。わたしは若い頃、バイトで穿かされたことがあります。
 
 わたしは着ぐるみショーのバイトを長くやっていました。「一休さん」「仮面ライダー」「キャンディーキャンディー」などなど。
「一休さん」では朴念さんという先輩の小坊主。「仮面ライダー」ではショッカーの親玉。「キャンディーキャンディー」では、院長先生(修道女)や、時に憎まれ役のイライザに入ることもありました。そうそう、「キャプテンハーロック」では、女王ラフレシアをやっていました。当時は、体重で今より二十キロも軽く。ウエストは三十センチ以上細く。手足も華奢だったので、よく女性のキャラが回ってきました。

 で、スカートを穿いていました。

 スカートとズボンは、基本的に違います。スカートは、自分の太ももが直接接する。あの感触は穿いた者でなければ、分からない。あの感触は、ズボンと違って、絶えず自分というものを意識する。だから、女性というのは自己中心的なのだ……などと飛躍はしませんが、思考の中に占める自意識というのは、男より強いのではないか……という言い方でも、お叱りを受けるかもしれませんね。
 
 もう一つの内容。そのころの貴族たちは、冠を入れる箱を新調せずに、前からの箱を継ぎ足して高くして使っていたようです。
 これをミミッチイととるか、「流行なんか、すぐに変わっちまう。間に合わせでよろしい」という合理性ととるかで、判断が違ってきます。

 その後、どうなったかと言いますと、冠の長さは短くなります。

 その点で貴族たちの予測は当たったのですが、短くなったのは織豊政権の終わりごろ、三百年も後の事であったと思います。冠の箱を元に戻せたのは玄孫のそのまた玄孫の時代です。

 はてさて、では、兼好自身は流行には乗らなかったのか? と思ったら、兼好は坊主のなりをしておりました。

 ひょっとしたら、法体(坊主のなり)でなければ、一度試してみたいと思ったかもしれませんねえ。

 

 

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らいと古典・わたしの徒然草64『車の五緒=ステータスシンボル』

2021-04-06 06:51:06 | 自己紹介

わたしの然草・64
『車の五緒=ステータスシンボル』  



徒然草 第六十四段

「車の五緒は、必ず人によらず、程につけて、極むる官・位に至りぬれば、乗るものなり」とぞ、或人仰せられし。


 短い段ですが、解説がいりますね。

 車とは牛車のことで、「車の五緒」とは、車輪の上のコンパートメントのような部分の簾(すだれ)にかけられた、細い平帯状の飾りのことです。兼好から見て昔の平安時代とかには、この五緒の簾をかけた牛車に乗れるのは、それなりの身分、位階を持った人間で、いわば、それに乗っているだけで「カッコイイ! セレブゥ!!」と、羨ましがられたステータスシンボルでありました。
 それが、兼好の時代は、貴族の衰退と共にやかましく言われなくなり、それほどの身分でなくても乗れたわけで、有職故実(昔のシキタリ)に詳しい兼好には、ややナゲカワシイことであるようです。で「或人仰せられし」などと人が言ったようにしていますが、本当は本人の嘆きであるようです。

 で、今回はステータスシンボルについて考えてみようと思います。

 昭和の懐かしい時代には「三種の神器」というステータスシンボルがありました。
 テレビ、洗濯機、冷蔵庫、がそれです。今は、こんなもの誰でも持っています。

 最近はテレビが必需品の座から滑り落ちかけて、若い人はスマホかパソコンがあれば十分という人もいて、半世紀以上続いたテレビの神器としての価値は急速に薄れようとしています。

 時代がくだると、「3C」と言われ、自動車(特に外車)、カラーテレビ、エアコン(昔はクーラーと言った)になりました。これも今ではステータスシンボルとは言えなくなってきました。今の若者は車に乗らない人が増えてきたし、アナログのカラーテレビは常識どころか、地デジのおかげで過去の産物になり果ててています。エアコンなど当たり前で、どうかするとエアコンを使わずに、涼をとるほうが、なんだか「エコやってます」と、カッコイイと思われるくらいであります。
 車で外車なんか乗っていると、「燃費の悪い車に乗ってアホかいな」と思われた時代も、もう古く、車なんぞ、今や靴と同じ感覚。履いていて当たり前。中には、サンダルやスニーカーで済ませる若者やオジサンも増え、ステータスシンボルでは無く、趣味の問題になりつつあります。

 現代社会は、ステータスシンボルが無くなった。あるいは、あまり意味のない時代になってきたように思うのですが、どうでしょう。

 で、ステータスシンボルとまでは言わなくとも、一般にカッコイイと思われることを考えてみました。
「成城に住んでますの」
 ちょっとカッコイイ。しかし「葛飾柴又です」というのも同程度にカッコイイ。
 関西では、芦屋や近鉄の「学園前」などカッコよかったが、今は、それほどではありません。
「海外留学」昔は、たいそうなお嬢ちゃん、お坊ちゃんがなさることでしたが、今では、長期の海外旅行とあまり意味は変わりません。むろんマサチューセッツ工科大学やケンブリッジなどは別格ですが、別格ということが一般化していないのでステータスシンボルとは言えません。「ケンブリッジ……どこのブリッジ?」の世の中であります。

 話しは変わりますが、全学連が存続の危機に立たされているそうです。全学連の参加団体の最大の東京大学が全学連から脱退したからだそうです。
 先日、このことをツイッターで呟くと、「全学連なんて、まだあったんですか!?」というツイートが返ってきました。
 ぼく達の若い頃は、全学連というと、恐れと尊敬の入り交じった目で見られたものであります。このツイートを返してきた人は、まだましで、たいがいの若者は「ゼンガクレンて、なんですか?」になる。
 東京大学も値打ちが下がりました。以前は東大出の芸能人ということだけで売りになりましたが、今は、それほどでもないのではないでしょうか。いつだったか、東大現役女子大生がヌードになったと騒がれたことがあったが、今では、そんなことではスポーツ新聞の記事にもならないでしょう。

 ザックリ言って、現代社会はステータスシンボル喪失の時代なのではないかと思います。
 

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らいと古典『わたしの徒然草63・兵を用ゐん事、穏かならぬことなり』

2021-04-05 06:30:17 | 自己紹介

わたしの然草・63
兵を用ゐん事、穏かならぬことなり』   

 



徒然草 第六十三段

 後七日の阿闍梨、武者を集むる事、いつとかや、盗人にあひにけるより、宿直人とて、かくことことしくなりにけり。一年の相は、この修中のありさまにこそ見ゆなれば、兵を用ゐん事、穏かならぬことなり。


 ちょっと説明がいりますね。

 兼好法師の時代一月八日からの七日間、天下太平を祈って大内裏の真言院で仏事がおこなわれていました。その仏事は阿闍梨(あざり=偉い坊さん)が指導し、武者を集めて、厳重に警備しました。いつからか、こんな行事にも盗人が出るようになり、宿直人(とのゐびと=ガードマン)だって、こんなに、ものものしくなってしまった。一年の吉凶を祈る行事にだって、こんなこの有様。穏かじゃないねという兼好の感想であります。

 つまり、昔は(おそらく、鎌倉時代、平安時代)宮中で穏やかにやってたのですが、世の中が物騒になり、完全武装の武士のオッサンたちの世話にならなくてはならなくなったことを、兼好は嘆いているのですねえ。まあ、鎌倉幕府が倒れ、大ざっぱな歴史区分では、室町時代になるんですが、後醍醐さんというケッタイな天皇さんが出てきて「これからは、自分で政治をやっちゃうからね!」と宣言しました。

 どこがケッタイかというと、歴代の天皇さんは君臨して国の安寧を祈る以外に仕事をしないことが常識でありました。むろん政治なんかはやらない。それをやろうとしたのですから、実にケッタイ、無謀であります。

 後醍醐さんは寝る間も惜しんで、なんでも一人でやっちゃう。それも理想は延喜天暦の治(えんげてんりゃくのち)と言って、平安時代の醍醐・村上天皇の時代がそうであったと思い(摂関を置かなかったので、そう思いこんでいた)自分の天皇としての名前を後醍醐、息子には後村上と名乗るように決めてしまいました(普通、この時代は、天皇さんの名前は、没後みんなで相談してつけた)。後醍醐天皇は、中国の歴史に詳しく、中国の皇帝がそうであったように、「オレだって、やっちゃうもんね!」と、思いこんでしまった人なのです。はた迷惑なこと、この上ない人で、後醍醐さんの「建武の新政」は、二年あまりでズッコケます。その前後の混乱期であるので、宮中といえ、物騒だったのですねえ。

 横道に入りますが、日本史上、最重要な決定をご自分でなさったのが昭和天皇の終戦の決定であります。正確には、何度も開いた御前会議で事が決まらず、時の内閣や重臣たちが天皇陛下に丸投げしてしまったのです。旧憲法の規定からも違法の色が濃いと言えますが。ここに日本の軍国主義と、ドイツ・イタリアのファシズムの大きな違いがあります。

 先日、大阪の新設公立高校の職員室を見る機会に恵まれました。

 ここで、わたしは兼好と同質の「穏やかじゃないね」を感じました。職員室に校内に設置された防犯カメラのモニターがあるのです。機密上、何台のカメラがあったかは言えませんが。しかし学校に防犯カメラは穏やかではありません。
 わたしは困難校の勤務が長く、生徒の行動監視や不審者の侵入には悩まされてきましたが、冗談で「監視カメラ欲しいなあ」と言ったことはありますが、設置が話題にのぼったことはありませんでした。生徒はワルサをするもの、不審者の侵入はあるものと覚悟はしていましたが、その監視は、教師という生身の人間がやっていました。それが、当たり前でした。
「ちょっと、なにやってんねん!?」
「あなた、どなたですか?」
 などと生身の人間が見て言うのと、監視カメラで機械的に警備するのとでは、基本的に有りようが違うと思います。

 今の教師は、首から犬の鑑札のようにIDカードをぶらさげています。
「こんなもん着けられるか!」
 わたしの感覚では、こうなります。出退勤もこれで管理される。昔は出勤簿への捺印でありました。
 むろんIDカードの方が管理にはラクチンです。しかし、これには「人間は不正をする」という性悪説が潜んでいます。出勤簿には、「まあ、ええかげんにやっておきましょう」という大らかさと、信頼感がありました。生徒に対して監視カメラを使わないというのと同列の信頼です。

 IDカードにしろ、監視カメラにしろ、抜け道はいろいろあります。IDカードによる管理は中抜けができます。極端な場合、他人が代わりに機械を通すこともできます。監視カメラは死角を見つければ、いくらでも抜け道があります。
 
 職員室にいる先生達の机上には、パソコンが置かれ、それとお見合いしている先生がたくさんおられました。成績や、その日の出欠状況を確認されておられるのでしょう。
 わたしは、放課後は、個人的な生徒指導ノートに肉筆で書き込んでいました。最後には、仕上げにノートをパラパラとめくります。すると、ひっかかる生徒や事件の記録が目に止まります。その時の筆跡で、そのコトガアッタ時の気分や状況まで蘇ってきます。で、気にかかった生徒を呼び出したり、そのまま家庭訪問に行ったりにつながります。
 教育にはアナログでなければできない領域があると、今でも思います。
 


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わたしの徒然草62『ふたつ文字』

2021-04-04 07:07:59 | 自己紹介

わたしの然草・62
『ふたつ文字』     

 


徒然草 第六十二段

 延政門院、いときなくおはしましける時、院へ参る人に、御言つてとて申させ給ひける御歌、

 ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる

 恋しく思ひ参らせ給ふとなり。


 この段は、皇后であった延政門院が、子どものころに、御所に来た人に預けて、父君の後嵯峨天皇にあてて詠んだ歌です。

 「ふたつ文字  牛のつの文字  直ぐな文字 ゆがみ文字 と君を思う」

 父君を「恋しく」と詠まれています。

☆なぞなぞ

 これは、なぞなんですねえ。

「ふたつ文字、牛の角文字、まっ直ぐな文字、ゆがみ文字」が何故「恋しく」なのか? ちょっと考えてみましょう。

☆なぞなぞの答え

 これは、ひらがなの形をなぞらえています。
「ふたつ文字」はひらがなの「こ」、牛の角文字は「い」、まっ直ぐな文字は「し」、ゆがみ文字は「く」。あわせて「こ・い・し・く」。

 今の子はなぞなぞをやるんでしょうか?
 昔はよくやりました。
「上は大水、下は大火事、なーんだ?(答・お風呂)」
 文字のなぞなぞもあります。「辶」に離して「首」が書いてある(答・分かれ道)とか、「雨」の真ん中の縦棒が下に長く伸びて「ん」になる(答・アーメン)などとやっていました。

 以前も、このエッセーで触れましたが、今の子は、あまり人にあだ名をつけなくなりました。
 昔はやりました。原田武という先生がいた。あだ名は「チョ-ビゲンタム」、お分かりでしょうか。この先生はチョビ髭であられました。それに「原田武」を湯桶読みして「ゲンタム」 で、二つを合成して「チョ-ビゲンタム」となります。
 出っ歯の先生は八重桜「ハナより先にハが出る」の意味。
 今の子は、先生を呼び捨てにして済ませることがおおいでしょうね。「オオハシ」とか「ムツオ」とか、直裁的で芸が無い。大阪弁というのは、言葉そのものに遊びや、シャレの種がある。「オオハシサン」をつづめると「オッサン」になる。和尚さんも、つづめると「オッサン」。文字にすれば同じですが、発音すれば明確な違いがあります(少なくとも大阪人には分かる)。それも最近は、急速に無くなってきたように感じます。中には心無いあだ名が人を傷つけるというので、あだ名禁止令を出す学校もあるそうです。
 映画の『スゥイングガール』のロケ中に、ガールズたちは、みんなにあだ名を付けていました。
「村長」「ミサイル」「おかん」などなど。語源はよく分かりませんが、「ジュリ」とか「シホリ」とか直裁的なものではありません。

 アニメの『女子高生の無駄づかい』でも、主役の一人のバカがクラス全員にあだ名をつけています。表情に乏しい「ロボ」、オタク趣味の「ヲタ」、ネガティブで暗い「ヤマイ」、礼儀正しく成績のいい「マジメ」、小柄でお婆ちゃん子の「ロリ」、占いや呪いに凝っていて不登校気味の「マジョ」などなど。一見あぶなそうな、イジメに繋がりそうなものもありますが、表現が的確で、面白がっては居ますが、根底にクラスメートへの肯定的な興味と、乱暴ではありますが愛情があります。

 要は、どういう気持ちで呼ぶかが問題で、きちんと名前で呼んでも悪意やオチョクリや敬遠の気持ちが潜んでいれば「大橋君」とか「大橋さん」とか呼ばれても気持ちの悪いものです。

 息子の授業参観の帰り、クラスの友だちが「大橋!」と呼んでいるのを耳にしました。男子なら当たり前の呼び捨てなのですが、その響きには、クラスでの息子のヒエラルキーの低さや、軽いイジメのニュアンスがありました。

 むろん、こんなことで学校に抗議などはしません。二年後の参観に行ったら普通の「大橋」になっていました。


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らいと古典・わたしの徒然草61『まじなひなり』

2021-04-03 06:48:19 | 自己紹介

わたしの然草・61
『まじなひなり』  

 



徒然草 第六十一段

 御産の時、甑落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣とどこほる時のまじなひなり。とどこおらせ給はねば、この事なし。
 下ざまより事起りて、させる本説なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。

 この段は、呪いについてであります。

 兼好の時代は、お産にあたって、屋根の上から甑(こしき)をを落とし、安産のおまじないをしたそうで、その(甑)も大原産のものがいい。という話しであります。 甑(こしき)とは、土器の蒸し器の事。底に穴が開いており、ここから蒸気を取り入れ上にふたをして米とか蒸したものです。

 どうやら、昔からのシキタリではなく、この時代、庶民の中で始まり、貴族社会にも浸透した、新しいお呪いだそうで、有職故実(昔のシキタリ)にうるさい兼好には珍しいことだったようです。

 で、今回は、お呪いについて語ることにします。

 お呪いの歴史は古く、旧石器の時代に抜歯や、前歯をノコギリ状に切れ込みを入れるもの、埋葬に当たっては、母胎の中の赤ちゃんと同じように、体を丸めて葬る屈葬をして、死者の生まれ変わりを願ったものあたりに始まりがあります。魏志倭人伝の中にも、倭人は、魔よけに、入れ墨(お呪いとして)をしていたとあります。
 清少納言も枕草子の中で、恋しい人の夢を見るためには、着物を裏返しに着て寝ればいいと書いています。

 今はどうなんでしょう。

 子どもの頃は、怪我をしたら「ちちんぷいぷい」「痛いの痛いの、とんでけ~!」や、「えんがちょ」などが生きていました。『千と千尋の神隠し』でも、釜爺が千尋に「えんがちょ」を切ってやるシーンが出てきますね。

 でも、今の子はやるんだろうか……。

 正月には、初夢で良い夢が見られるように、枕の下に見たい夢の絵を描いておいた記憶があります。
 前世紀には、コックリさんや、「愛国駅から幸福駅行きの切符」などが流行りました。わたしも北海道の友人から、昭和六十二年二月一日付のそれをもらって、いまでも大事にしています。清明神社とおみやげ屋さんとがグッズの販売をめぐって争ったことも耳に新しく残っています。
 しかし、ごくローカルなものや、ほんの流行りとしてのものを除いて、お呪いというのは廃れてきているのではないでしょうか。
『千と千尋の神隠し』の「えんがちょ」も意味が分からず、ネットの知恵袋で質問している人がいました。「ちちんぷいぷい」も珍しく懐かしいために、テレビのバラエティー番組のタイトルになっているともいえます。

 今は、お呪いは後退して、現実的な対処法が流行っています。結婚や就職は、神社などに願掛けに行くよりも、婚活、就活のセミナーなどが流行りで、一部のお呪いは人権上問題があるとされたりして廃れてしまいました。まあ、時代の流れであると言えばそれまでなのですが、なんだか生活上の潤いを失ってしまったと感じるのは、わたしだけでしょうか。

 お呪いというのは、地域の中にコミュニティーが存在していて、年寄りから子供たちへ、子供たちの中でも、年長者から幼い者に伝達されてきたものです。
 だから、お呪いの廃れというのは、日本固有の地域社会が衰退してしまったことの現れではないかと思うのですが。

 現代社会のお呪いにあたるものは、一見文化的、科学的であります。
 たとえば、空気清浄機、空気清浄剤で清潔を保つという「お呪い」です。あれって、大腸菌などの常在菌まで殺してしまって、人間の耐性を落としているとも言われます。

 海外旅行に行くと水とかが合わずに、真っ先にお腹を壊してしまうのは日本人だと言われています。

 また、今般のコロナ感染者が諸外国に比べて二けた少ないのも、サニタリーに関する日本人の感覚と言われています。これは、潔癖症とバカには出来ないですね。

 スペイン風邪が流行った時、ポーランドの罹患者が少なかったと言われています。ポーランドでは、食後の食卓を度のキツイお酒で拭く習慣があって、そのために罹患者が少なかったという説があります。お呪いというか生活習慣の賜物といったところなのかもしれません。

 携帯電話という神機があります。ここに、メールとかラインとかのメッセという「お呪い」が絶えず入ってきます。

――今、何してる?
――どこにいる?
――カラオケ行こうぜ!
 いろんなお呪いが、入ってきて、人々は簡単に、このお呪いにかかってしまいます。
――今、何してる?――特になにも――じゃ、遊びに行こう。
――どこにいる?――電車の中――じゃ帰りにコンビニで、あれ買ってきて。
――カラオケ行こうぜ!――行く行く(本当は気乗りがしていないのに)

 気弱な現代人は、携帯電話で、お互いにお呪いをかけて、縛りあっているように、わたしには思えるのです。だから……というわけでもないにですが、わたしは、携帯電話を持ちません。

 日本最大のお呪いは、日本国憲法である。と言ったらお叱りを受けるでしょうか。

 日本の国の有りよう(The national polity)を無視して作られた憲法は、日本人の紐帯(結びつき)を崩してしまい。今や、日本の世帯人数は二人を割り込もうとしています。

『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』
 人間相互の関係を支配する崇高な理想……ちちんぷいぷいから、叙情性と人肌の温もりを抜いたら、こんな言葉になるのでしょう。
「ちちんぷいぷい」は、怪我をした子どもの周りに他の子達が集まって「大丈夫やよってに、泣かんとき」と癒しの言葉といっしょに出てくる温もりがありますが、前文は、政党のマニュフェストのように抽象的で温もりがありません。
 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して……に至っては、人類愛の極致であり、宗教の教義としては有効かもしれませんが、最高法規としての憲法としては、お呪いとしか言いようがないように感じます。

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らいと古典・わたしの徒然草60『芋頭といふ物を好みて』

2021-04-02 06:06:50 | 自己紹介

わたしの然草・60
『芋頭といふ物を好みて』   



 この六十段は、長いので原文は割愛しますが、要約するとこんな感じです。

 仁和寺の真乗院に、盛親僧都(じょうしんそうず)という、変わり者の坊主がいた。
 芋頭(いもがしら)という里芋が大好きで、年中こればかり食べている。師の坊さんが亡くなったとき、少しばかりの貯えを、この坊さんに残したが、それも全部芋頭の食い代にするような坊主である。
 そして行儀が悪い。お経を唱えるときも、病気でひっくりかえっていても、この芋頭を食べながら。法事に呼ばれても、皆が揃わないうちに、さっさと食べ始め、食べ終わると挨拶も無しで帰ってしまう。人に適当にあだ名をつける。それがふるっている。
「しろるうり」
「『しろるうり』て、なんでんねん?」
 人に聞かれると、こうだ。
「そんなもん知らん。もし、『しろるうり』いうもんがあったら、そうやねんやろ」
 と、下手なコントのボケのように取り留めがない。
 と言って、破戒僧でもない。 姿よくて、力強く。書、学、論、全てに優れ、寺でも重く扱われていた。

 この段は、普通、こう解釈されているようです。

 能力や才能に長けた者は、多少の奇行(イカレた言動)があっても大目にみてもらえる。

 わたしの住まいの近くに、かつて今東光(こんとこう)という怪僧がいました。横浜の船長の息子として生まれ、日本プロレタリア映画同盟の委員長をやったりしましたが、いろいろとあった後、天台宗の坊主になり。わたしの近所の天台院という無住のお寺の住職になって、そこに住み着いていたインチキ坊主を叩き出しました。
 叩き出したのはよかったけども、檀家は三十軒しかないという貧乏寺。檀家まわりに行くときの袈裟もないので、風呂敷を肩で結んでごまかした。賭け事、ケンカも大好きで、河内の風土が体にあって、河内を舞台にした小説『悪名』などを残しています。
 近所の流行らない床屋に行ったとき、お女将さんに頼まれました。
「オッサン(和尚さんの意味で、いわゆるオッサンとはアクセントが違う。ちなみに、大橋さんも、つづまると、オッサン)なんか、流行りそうな店の名前、考えとくれやす」
「おう、まかしとけ」
 で、数日後、墨痕鮮やかに『美人館』と、書いてやってきました。昭和二十年代の話しでありますが、今でもこの床屋さんは健在である……というのは、ちょっと前に書きましたね(^_^;)。
「人間死んだら、どこへ行くんですか?」と、聞かれれば、こう答えます。
「知らねえよ、張り倒すぞ」
「じゃ、極楽は?」
「それも行ったことねえから、分かんねえ」
「髪が薄いんですが……」
「髪の毛有る奴見ると、ああ、むさっくるしいだろうなって、同情しちゃうね」
 というあんばい。
 しかし、『お吟さま』で直木賞をとり、後年は国会議員になったり、中尊寺の貫主になった。瀬戸内晴美が出家するときには、自分の法名春聴から一字をとり寂聴としたりしました。

 教師の話をします。

 昔の教師は、生徒の目から見ても、教師は玉石混淆(良いのも悪いのも混ざっている)でありましたた。
 生徒は、独特の勘で、それを見分け、玉の先生からは得難い影響を受けていました。以前書いた和気史郎先生などは、その典型です(分からない人はネットで検索してください。瀬戸内寂聴をして「狂気と正気の境目に立つ画家」と、言わしめた人です)。 そんな先生が、公立の学校に平気な顔で普通に教え、偉大な影響を生徒達に与えました。

 古くは宮沢賢治、夏目漱石も教師でありました。夏目漱石は、鼻毛を抜いて、鏡に植え付けたり、子どもをタンスの上に上げ「そこから飛び降りなさい!」と命じたりして奥さんから、よく叱られていたそうです。
 わたしのひい祖父さんは尋常小学校の先生をやっていましたが、人が通らない田んぼの間や、野原を通って学校に通い、いつのまにか細い道になりました。
 村の人達は、その奇行をおかしがり、ひい祖父さんの名前をつけて侍従道と名付けました。
 
 昔の教師は安月給な分、気楽であったようです。
「一学期、まことにご苦労様でした。明日からの夏休み、どうか、ゆっくりとご休養ください」
 昔の校長が、終業式のあと、先生たちに言った言葉です。今の教師は夏休みでも毎日定刻に出退勤しなければなりません。
 昔の教師は、情熱のある人は、部活や補習。中には自主的に生徒を連れて体験学習をやったり。むろん怠け倒して、休んでいる人もいましたが。
 今は、形で教師を縛ります。IDカードで出退勤を管理され、パソコンを使って、常にレポートや、報告書を求められ、免許さえ十年おきに更新しなくてはなりません。
 確かに管理は行き届くようにはなりました。
 しかし、学校は官僚機構のようになり、先生は玉石共にいなくなったように感じます。

 ちなみに教員採用試験の倍率は三倍を切って久しいと言います。他の公務員や民間企業では最低でも七倍の倍率が無いと組織を維持する水準の人材は取れないと言われます。

 ある校長先生がおっしゃっていました。

「いやあ、個性を殺さず、採ってから育てます、大丈夫です」

 期待してます。

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らいと古典・わたしの徒然草・59『大事を思ひたたん人』

2021-04-01 07:11:52 | 自己紹介

わたしの然草・59
『大事を思ひたたん人』    

 



 徒然草 第五十九段

 大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。

 
 大事なことを思い立ったら、他のことには目もくれず、やらなきゃダメだ!

 兼好のご託宣であります。

 本来はこの「大事」は仏道を指しますが、人生一般の大事なことと解していいでしょう。歌謡曲、特に演歌などに出てくる「なんとかしたら、命がけ~♪」の、ことですね。

 ちょっと懐かしいAKB48風に言えば、マックスハイテンションでラライングゲットしたいほどのものですね。
 一見簡単そうです。恋にせよ、仕事にせよ、「これだ!」と思ったら、脇目もふらずガンバリなはれ! というメッセージなのですから。

 カビの生えた言葉では「初志貫徹!」「ボーイズ、ビー、アンビシャス!」でしょうか。景気の良い言葉で、明治このかた、教師が新入生や卒業生に送る言葉に、同類のものが良く出てきます。卒業アルバムや、文集などにいろんな言葉を書かされましたが、わたしはこの手の言葉は書いたことがありません。
 なぜかと言いますと、初志や人生の大事など簡単に見つかりません……見つかってもいないものに「がんばれ!」の言葉は無責任だと感じるのです。

 遅刻すんなよ! 忘れ物しないよう 今度はモーニングコールする側に! たまには先生の話も聞いてね 笑顔が良くなったね キミの質問は面白かったぞ 

 ひねりはありませんが、その子が気にしていたことや、癖になっていたことについて短く書いてあげました。具体性のある一言の方が距離が近くて温もりがあると思ったからです。

 たまに気になって、他の先生がお書きになったものをチラ見しましたが、わたしより長い言葉で同じ趣旨の事を書いておられました。わたし自身、先輩の先生のやり方を見て、無意識に、そのショートバージョンをやっていたようです。

 司馬遼太郎さんが倒れられて緊急手術をしなければならなくなられ、手術室に運ばれるときの話です。

 奥さんだったと思うのですが、ストレッチャーの横について「がんばって!」とおっしゃったそうです。

 司馬さんは「がんばって!」という言葉はあまり使われませんでした。

 でも、この時、司馬さんは「うん、頑張って来る」と応えられたそうです。

 ご自身のエッセーに書かれていたと記憶しますので、最後の入院ではなかったのかもしれません。あるいは奥さんのみどりさんがお書きになったのを、そう思っているだけなのかもしれません。

 手術室までの、おそらく数十秒の間、掛けられる言葉は多くはありません。考えている暇もありません。

 こういう時は「がんばって!」しかないのでしょう。

 ようは、どんな気持ちを言葉に載せられるかという、言葉をかける側とかけられる側の関係次第。

 そう言えば、若いころ、ちょっと大きな手術をしましたが、ストレッチャーに載せられて手術室に向かうわたしに、大正生まれの母は無言でした。

 無言でありましたが、気持ちは十分に伝わりました。

 もっとも、麻酔から覚めて、手術跡の痛さにすっかり忘れてしまう親不孝者ではありましたが。

 どうも、今回もとりとめがありません。

 

 

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らいと古典・わたしの徒然草58『道心あらば』

2021-03-31 06:54:44 | 自己紹介

わたしの然草・58
『道心あらば』     



徒然草 第五十八段

「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を願みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し(以下略)


 仏の道を学び、生死の迷いを捨て去ろうとするならば、坊主になって出家すべきだ!
 トチ狂った兼好の余計なお世話であります。略した後半では「死を見つめない者は畜生と変わる所あるのか」とまでのお節介ぶりです。

 兼好自身、坊主のナリはしていますが、都の中に身を置き、俗世間との付き合いにまみれてよく言えたものですねえ。真偽のほどは定かではありませんが、足利氏の重臣高師直(こうのもろなお)のラブレターの代筆をやったり、祭りや宴会などにも喜んで顔を出したりしています。

 まあ、そういう自分を振り返って、かくあらまほし(こうであったらいいなあ)の話なんでしょうね。

 なので、「かくあらまほし」の話しをしたいと思います。

 わたしは、子どものころは画家になりたかった。なぜか……他に取り柄が無いからです。小学校のころ、算数などは、一年遅れで理解していました。ローマ字がまともに書けるようになったのは中学になってから。音符が読めないので音楽の授業も嫌いでした。運動神経が鈍く体育も敬遠。高校に入ってからは、絵と芝居ばかりやっていました。昨年演劇部の同窓会で、後輩にこう言われました。
「大橋さん、学校に勉強しにきてはったんとちゃうでしょ」
「そうや、絵描くのんと、芝居だけしに行ってた」
 美術の授業は好きだった。先生は和気史郎というプロの油絵の先生で、梅原猛氏、瀬戸内寂聴氏は和気先生を『狂気と正気の間の芸術家』と賛辞したほどの人であります。学校で、ちゃんと進路を見据えて生徒扱いしてくれた唯一の先生でもあります。ある日、先生がおっしゃいました。
「大橋君、きみ美術の学校にいかないか」
 大人から、初めてかけられた「かくあれかし」の言葉でした。大げさにではなく身が震えて、そして担任に相談しました。
「美術の大学行きたいんですけど……和気先生にすすめられ……」
 担任は椅子に座って背中のまま、顔も見ないでこう言いました。
「美術の大学は、実技の他にも試験があるねんぞ」
 で……お終いになってしまいました。
 わたしは後年教師になりましたが、生徒が相談に来たときは、必ず正対して顔を見て話すことを心がけました。

 和気先生は、卒業記念の湯飲みの原画を無料で描いて下さいました。生徒たちも和気先生を単なる美術の講師ではなく、人間的な師と仰いでいるようなところがありました。先生は無心に絵を描く生徒には実に優しく、美術室は施錠されることが無く、好きな時に好きなだけ絵を描かせてくださった。逆にいい加減な態度で授業に臨む生徒には厳しく、授業中抜けて食堂に行っていた生徒には作品を取り上げ本気で怒鳴っておられました。怒鳴られた生徒の中には、コワモテの学園紛争の闘士も混ざっていて、他の先生は、そういう生徒には一歩引いた物言いしかしませんでした。この歳になるまでいろんな人間の怒鳴り声を聞きましたが、和気先生の怒気を超えるものを聞いたことがありません。
 担任は、その卒業記念の原画に、和気先生の落款をもらおうとして断られました。落款があれば作品となり、それだけで途方もない値打ちが付く。生徒たちは、密かに、担任を軽蔑しました。
 和気先生は、わたしが卒業したあと、正規の教員(担任業務などの校務ができる)が欲しい管理職に申し渡され、退職されました。
 そのころも、今でも、学校は間違った選択をしたと思っています。
「かくあらまほし」ということを、きちんと言える大人は少ない。
「かくあれかし」ということを、きちんと心に刻める若者も少ない。

 それからのわたしは芝居だけでありました。わたしが人がましく見てもらえるものは絵と芝居しか無かったので、消去法で芝居が残りました。
 消去法ではありましたが、いま振り返ると頑張っていましたね。早朝から学校に行き、演技の基礎練習をやって、昼休み、放課後は部室で何かしら演劇的な試行錯誤をくり返していました。自然とエチュ-ドが有効であることに気づき、哀れな後輩を捕まえては相手をさせていました。
 青春とは臆病なもので、何か、誰かに後押ししてもらわなければ前に進めないものです。結局、芝居も一歩腰が引け、アマチュア劇団、高校演劇の世界の中で「ま、いいか」で五十年が過ぎてしまいました。人間はNHKの朝の連ドラのようには成長しませんね。
 
 今、和気先生の晩年の歳に近くなってきて、若い人に「かくあらまほしき」と言えるだけのものは、わたしの中にはまだありません。しかし、若者たちがやっていることで「これは違う」と思うことが気になりだしました。ポジティブに「かくあれかし」とはなかなか言えないことがもどかしい。
 いつだったか、電車の中で初任校の卒業生に声をかけられた。聞くと、社会科の教師になっていました。
「先生の授業聞いてて、社会の教師になろと思たんです」
 わたしが教師になった理由は不純です。教員採用試験を受けることをプータロウでいることの言い訳にしていました。で、五回目の試験を受ける半年前に父が病気で仕事を辞めました。
 これに受からなければ、我が家は食っていけない。それで、人生で初めて食うための勉強をして、なんとか通りました。
 教師になってからは、教えてもらった先生達を頭に浮かべ、あんな教師にはならないでおこうと思ってやってきました。とても和気先生のように人格で圧倒できるような教師ではありませんでした。
 くだんの卒業生、ひょっとしたら「大橋のような教師にはなりたくない」と思ったのかもしれませんねえ。世の中には、わたしたちの世代が好んだ「反面教師」という言葉があります。

「かくあらまほし」というものは難儀なもんですなあ、兼好さん。

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らいと古典・わたしの徒然草・57『かたはらいたく、聞きにくし』

2021-03-29 06:41:26 | 自己紹介

わたしの然草・57
『かたはらいたく、聞きにくし』  



徒然草 第五十七段

 人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。

 中途半端な知識や経験で、あれこれウンチクをたれるのはウザイだよなあ……。
 これを、兼好のオッチャンは、自分の専門の和歌に例えて言っています。

「歌詠みは下手こそよけれ天地(あめつち)の動きいだしてたまるものかは」
 宿屋飯盛の狂歌を思い出します。
 これは古今和歌集の序、「力をもいれずして天地を動かし…」をもじったものであると言われています。
 この狂歌は、宿屋飯盛の意図を超え、中途半端を超えて専門家さえ疑ってかかれ。と言う風に聞こえます。

 子どもの頃、社会主義や共産主義の国が世界の半分あって、なかなか捨てたもんじゃない。と教えられました。唯物論の初歩を教えられ、遠回しではあるが、マルクス・レーニンの考えと、それを理念として、当時現実に存在していた国々は正しいとも教えられました。
 しかし前世紀末にそういう国々は地上から姿を消しました。子どもの頃、朝日新聞の天声人語で入江徳郎氏がアジア某国に行き、その国を礼賛したものを読んだことを思いだします。

――ホテルから見える街は清潔で、労働者たちが隊列を組んで合唱しながら整然と職場から帰る姿に、この国のすばらしさを感じた。そういう内容でした。
 中国の文化大革命を頼もしく思っていた時期がありました。
 高三のとき『誰も書かなかったソ連』という本を読みました。あまりに習ったこととかけ離れたことが書かれていたので、先生に聞いてみました。
「アメリカはもっと矛盾に満ちた国だ」と答えられました。
 その『誰も書かなかったソ連』の姿が現実であることは、ソ連が崩壊してから知ったし、もっと矛盾に満ちたアメリカが健在であることで、わたしは先生や著名人の言うことを鵜呑みにはしないニイチャンになりました。

 わたしは、高校二年を二回やりました。つまり落第なのですが、専門用語では原級留置と警察のお世話になるような言い方をします、高校生のスラングではダブリと申します。
 わたしは落ちた時に先生達から、こう言われました。
「オマエが落ちるとは思わんかった……」余韻の部分には軽蔑と非難のニュアンスがありました。
 わたしは、いわゆる品行方正な生徒で、留年が決定する、ほんの二週間前には在校生代表として、卒業式で送辞を読んでおりました。
「前代未聞だ!」と東京帝大卒の先生ななじられました。
「送辞を読んだ在校生代表が原級留置になるなんて、聞いたことがない」と続きます。
 純真だったわたしは自分を責めました。しかし現場の先生になって気づきました。
 留年する生徒には、成績面はもちろんのこと、出欠状況にも前兆があります。わたしは留年した年二十日ほどの欠席がありました。当時の生徒の出欠管理などいいかげんなもので、現実には三十日は欠席しています。わたし が教師になったときは、成績、出欠ともに担任、教科担当は厳格に掌握していて、一学期末から本人への指導はもちろんなこと、保護者への連絡と連携指導は当たり前のことでした。
「オマエが落ちるとは思わんかった……」は、教師と学校の怠慢でしかありません。今こんな言葉を留年決定時にい言えば、学校は指導の責任を問われます。

 目出度く三年に進級したとき驚きました。学年の落第生が三人同じクラスになっていました。落第など学年に一人いるかいないかの学校だったので、落第三人組は喜びました。
「わあ、大橋君と○○君もいっしょや!」
 落第女子がそう言って笑いました。無邪気なものです。
 学年の他の担任の先生も「卒業できるようにがんばれ!」と、励ましてくださいました。
 現職になって分かったことですが、留年などの問題を抱えた生徒は、どの担任も持ちたがりません。で、キャリアや分掌の仕事などを考え、話し合って、そういう生徒は分担して受け持つのが普通です。
 わたしたち落第三人組を引き受けたのは、カバさんでした。
 むろんあだ名です。
 お顔と動きの緩慢さから付いたあだ名で、学年主任の先生であられました。担任会で引き受けてのない三人組を主任の責任で、お引き受けになったのであろうと思います。いわゆる貧乏くじ。
「がんばれよ!」と励ましてくれた他の先生たちは、留年生の受け持ちにはなりたくなかったのだと思います。学校とは社会の縮図、それも一時代遅れの縮図です。わたしが高校で教わった教養は美術の他は、ただ一つ。
「反面教師」の四文字でありました。

 どうもいけません、かたはらいたくから脱線して終わってしまいます。

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らいと古典・わたしの徒然草56

2021-03-28 05:18:22 | 自己紹介

わたしの然草・56
『よき人の物語するは』  



徒然草 第五十六段

 久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、数々に残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥づかしからぬかは。つぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息も継ぎあへず語り興ずるぞかし。人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひののしる。いとらうがはし。
 をかしき事を言ひてもいたく興ぜぬと、興なき事を言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計られぬべき。
 人の見ざまのよし・あし、才ある人はその事など定め合へるに、己が身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。

 これは人付き合いについての兼好のの意見、感想というか、処世術ですね。

 久しぶりに会った人に、自分のことばっかし喋りまくるのはアカンと言います。
「おれさ、あれから、あんなこと、こんなことあってさ。そんでよ……」
 という具合で、自分の事しか言わない。会話で大事なのは、いかに人の話が聞けるかにある。
 わたしも久方ぶりの人は、まず相手の話を聞くことにしています。
 教師をやっていて身に付いたことであります。
 懇談などやっても、「お子さんの成績がどうのこうの」などとは始めません。
「お家のほうでは、いかがですか?」から始める。
「いや、ちょっとも言うこと聞きませんわ」
「どんな話をしはるんですか?」
 あとは、出てきた話に合わせます。
「いや、うちの主人が、ちょっとも子どものことやら、家のことは言わしませんねん」
 ああ、このお母ちゃんは、かなり自分の亭主のことに不満があるなあ、と知れます。
 ひとしきり、亭主の棚卸しを聞く。長くなりそうだったら、こう提案する。
「お母さん、なんやったら、別に時間とってお聞きしましょか」
 十人に一人ぐらい「そうしてもらえます!?」になる。
 そう答えたお母さんの大半は、それだけで終わりになる。
 ごく稀に、本当に、もう一度やってくるお母さんがいます。最長で、六時間喋っていったお母ちゃんがいました。子どもへの不満から始まり、果ては自分の半生記を語り出す。
 それをとぎらせず、ひたすら聞く。黙って聞いていてはいけない。「ほー」とか「それから?」とか合いの手を入れる。「大変でしたなあ」「よう辛抱しはりましたなあ」などと親和的な言葉も挟む。

 生徒に対しても同じで、相手の言葉から、話のトッカカリをつかんで話を聞きます。

 男子生徒が、女子生徒を叩く現場に出くわしたことがあります。当たり前なら暴力行為で、すぐ生活指導室に引っ張っていき、事情聴取、そして主担や生指部長に報告、で、停学処分となります。周りに他の教師や生徒もおらず。二人が個人的関係であることも承知していました。「夫婦ゲンカやったら外でやってくれよ」から始めました。女の子の表情も伺う。涙目ではあるが、「二人のことやねん」と目が言っています。
 で、二三日様子をみる。夫婦ゲンカは収まっている。で、時を置いて聞いてみる。
「なんでどついたんや?」
「しょうもないこっちゃねん。こないだ待ちきっとったら用事できて行かれへんかってん。ほんなら、あのブス、ムクレよったさかい」
「あほか、おまえら」
「エヘヘ……」
 と、話して収まりがつく。
 これ、普段から生徒との関係ができていて、また生徒同士の関係を承知していなければできない芸当であります。

 よそのクラスの懇談で、こんなことがありました。たまたまPTAの担当だったので、その懇談に来たお父ちゃんのグチを聞くことができました。
「子どもを、私立の大学にやりたい言うたんですわ……」
「ほう、で、なにか?」
「担任のセンセ、いきなり『三百万用意してください。四年間でそのくらいかかります』ですわ」
 子どもにしろ、親にしろ、私学の大学に行かせるのには、それなりの葛藤があったはずです。なんせ、わたしの学校は進学と就職が半々なのです。まずは、進学と決めたことへの敬意を持ち、経緯を聞かなければならりません。そのお父ちゃんは、息子の進学のため自動車の買い換えを諦めたそうなのです。そんな話を食堂でうどんをすすりながら伺いました。
 
 先日、ご主人の母国フランスに帰る女友達の送別会を六人でやりました。前述したような会話のコツを心得たもの同士であったので、話題の振り方も程よく、互いの近況をほぼ等分に聞くことができました。わたしは高校演劇関係でカタキを作りすぎると意見されました。友人は、日本人がいかにフランスを尊敬しすぎているかについて述べ、間接的にフランスに行くのがイヤだということをおもしろおかしく話してくれました。この友人の子どもは三人いますが、上の二人は日本に留まり、上の子は自衛隊に志願するとのことで、一般論としては賛成。個人的には「もうちょっと考えたほうがいい」と言っていました。これから先、自衛隊は体と命を張った任務が増えそうだからとの心配からです。

 よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ(本当にできた人の話は、大勢の人に語っているようでも、一人一人に語りかけているようでいいんだよなあ)
 こんな人は少なくなった。

 先の大震災のおりの天皇陛下(いまの上皇陛下)のお言葉など、これであったように感じました。そういうと「おまえはカタヨッテいる」と言われます。陛下は当時の石原慎太郎都知事が「被災地のお見舞いは、皇太子殿下にお任せになっては」との意見具申にいちいち頷かれ、会談の終わり、会場の出口で立ち止まられ、こうおっしゃったそうです。
「やはり、被災地へは、わたし自身で行きます」
 さすがの石原氏も汗顔であったそうです。こういう話に日本人はドンカンになってしまいました。兼好の時代の日本人は、人の話を聞くアンテナの感度が、今の日本人よりよかったのではないかと感じてしまいます。鎌倉仏教が隆盛になったのは、兼好のオッチャンより少し前の時代でありましたが、感度がよかったからこそ、日蓮、法然、親鸞などの「よき人」の話が素直に入ったのではと想像します。今の時代ならば中程度の新興宗教で終わっていたのではないでしょうか。
 

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らいと古典・わたしの徒然草・55『家の作りやうは、夏をむねとすべし』

2021-03-27 06:42:22 | 自己紹介

わたしの然草・55
『家の作りやうは、夏をむねとすべし』  


徒然草 第五十五段

 家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪え難き事なり。
 深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。 天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。


 日本の家屋は、弥生の昔の高床式倉庫から、夏の暑さと湿度を気遣った作りになっていました。むろん一般の人々の家屋が高床になるのは、都市部では江戸時代。地方にいくとどうかすると昭和に入ってからというところもあります。
 では、庶民の家屋は夏に弱かったか。いや、エアコンなど無くても、けっこう涼しかったようです。
 江戸時代までの庶民のほとんどは、弥生の昔の縦穴住居とあまり変わらない住まいに住んでいた。近代に入り庶民の家も人がましくなっても、夏には強い生活空間でありました。
 日本建築では、壁というものが、あまり存在しません。たいがい障子一枚が外界との境であり、屋内の部屋の仕切も襖一枚であります。

 南こうせつの『妹』という名曲の中にもあります。

~妹よ~襖一枚隔ててぇ~いまぁ~小さな寝息をたててる妹よ~♪

 そう、夏は障子を開け放ち、襖を取り払えば涼しかった。都市部でも緑が多く、地面もアスファルトで塗り固められるということもありません。昼過ぎの暑い盛りになると、近所のオバチャンたちがホースで盛大に水を撒きます。打ち水などというヤワで上品なものでなく。ちょっとした防火訓練並の撒きようでありました。
 ホースから放たれる水に、時に小さな虹がかかることもあって、子どもたちは、オバチャンたちがホースで盛大に撒く水の中をキャーキャー言いながらくぐり抜け、程よく濡れて涼んでいました。
 土がむき出しの道路は、すぐに水を吸い込んだし、お日さまは残りの水を蒸発させ、その蒸発していく中で道路の空気は冷まされ、開け放った家の玄関や襖、障子を緩やかな冷風となって、通り抜けていきました。
  
 七十年代の歌に、こんなフレーズのものがありました。

 ~通り雨、過ぎた後に残る香りは夏このごろぉ~♪

 そう、夏には香りがありました。今よりも、もっと濃厚な香りが。
 あれは、地面がアスファルトで塗り固められることもなく、家々の玄関や障子が開け放たれていたからこそ感じられた香りなのでしょう。
 夏の朝などは、集団登校のため、ちょっと遅れたりすると、同じ班のガキンチョ仲間が、玄関の中まで入ってきて、呼ばわった。
「むっちゃん、もう時間やでぇ」
 近所のオバチャンたちもよく玄関に立っていた。
「田舎から、こんなん送ってきたよってに、少ないけど、どうぞ」
 あるときは、裏庭が共用になっている縁側に、友だちや、オバチャンたちが顔を出した。
「むっちゃん、熱下がったんかいな」
 明治生まれの隣りの年かさのオバチャンなど、そのまま上がり込んで、おでこの熱を診てくれたりしてくれたりしました。

 わたしは三歳のころ行方不明になったことがあります。もちろん、わたし自身には記憶がありません。
しかし、そのときはご近所総出で探して下さったそうです。三軒となりのオッチャンは元陸軍の優秀な下士官で、瞬くうちに近所の人たちに捜索の手はずを指示しました。当時の大人達は、子どもの遊び場所をよく心得ていて、三十分ほどで心当たりの捜索を終えたそうです。
 しかし、わたしの行方は要として知れない。元下士官のオッチャンは三人のオッチャン、オバチャンを指揮して、所轄の警察署までの道の角に配置し、いつでも捜索願を出せる体制をとった。そして索敵範囲を電車道の向こうまで広げました。
「電車道やと、難儀やなあ……」
 なんせ、交通事故の死者が年間数万人の時代であります。
「もう、捜索願出したほうがええで」
 元陸軍准尉のパン屋のオッチャンが、作戦変更を提案。筋向かいの元海軍さんが走りかけたころ、わたしは、見知らぬオバチャンに手を引かれて戻ってきた。
「カネボウの方から来ました」
 その人は、電車道のその向こうの方でウロウロしていたわたしを不審に思い、訪ね訪ねしながら、わたしを連れてきてくださったそうでした。
 丙種で、戦争に行けなかった父は、元陸軍さんや、海軍さん、国防婦人会、女子挺身隊のみなさんに頭の下げっぱなしであった……そうです。
 まさに『三丁目の夕日』の世界でありました。

 夏の日本家屋の有りようから三丁目の夕日まで行ってしまいました。

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らいと古典・わたしの徒然草・54『あまりに興あらんとする事は』

2021-03-26 06:04:23 | 自己紹介

わたしの然草・54
あまりに興あらんとする事は』   

 



徒然草 第五十四段 御室にいみじき児

 御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情の物にしたため入れて、双の岡の便よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそそのかし出でにけり。
 うれしと思ひて、ここ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困じにたれ」「あはれ、紅葉を焼かん人もがな」「験あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木の下に向きて、数珠おし摩り、印ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋みけるを人の見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくいいさかひ、腹立ちて帰りにけり。あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。


 ちょっと訳します。

 御室(みむろ)とは、法皇さま(天皇さまが引退して坊主になったの)のいる寺。ここでは例の仁和寺を指すらしい。そこにメッチャ可愛い稚児(坊主見習いの少年。ま、十歳ぐらいか)がいるので、仁和寺の坊主たちが、この子を誘い出して、双岡(ならびがおか=仁和寺の近所、京都大学のあたり)でピクニックをやろうと計画。で、あらかじめ稚児が喜びそうなプレゼントを適当な場所に隠しておき、稚児を連れ出した。
 そうして、自分たちの法力で、あらら摩訶不思議。地中からプレゼントが出現! そう企んだ。
 そして、いざ、印を結んだり、経を唱えたり、もったいつけて、その場所を掘り返した。
 ところが……出てこない。で、いい歳こいた坊主ドモが「場所間違えたんとちゃうんか!?」などと、ネタバレバレバレに言い騒いだ。どうやら埋めるところを見ていて盗んだやつがいるらしい。
「なんや、このオッチャンら」と、稚児はドッチラケ。
 あまりに凝りすぎると、ろくな事にはならないぞ……というお話。

 わたしは、むかし見合い魔でありました。

 二十代から、三十代前半にかけて手ひどい失恋を三回やりました。そこで、アトクサレが無く、精神的なダメージがない見合いに賭けてみたというわけです。友人知人に声を掛け、その手の会社にも登録をして、見合いを重ねました。だいたい月に三回ぐらいのペースで、延べ五十六回の見合いをし、職場の同僚からは「大橋の見合いは趣味や」と言われました(^_^;)。

 見合いは一種の面接で、最初の三十秒、三分、三十分が勝負。

 三十秒で、相手に好印象を与えなければ、あとの挽回は極めて難しい。
 三分で、相手は「話を聞いた方がいいのか、こちらがリードして話題を提供しなければいけないのか、見極めなければならない。リードするといっても、最終的には相手にお話してもらえるようにする。人というモノは、共感してもらいたいものなのである。それも百パーセントではいけない。二割方の質問や、疑問は呈しておいたほうがいい。三十分もしたら(状況しだいで一時間)場所を変える。外に出た方がいい。お日さまに当たればセロトニンがお日さまからいただけ、人間はポジティブになれる。

「どこに行きましょうか?」

 これは、最低。主体性がないこと丸出し。

 男たるモノ、自然にエスコートできなければなりません。

 わたしは、たいてい事前に見合いの場所と、その周辺を下見しておきました。むろん雨になった時のことも想定しておきます。途中立ち寄るかもしれないレストランや喫茶店もチェック。
 これは、教師が校外学習の準備をするときの下見と同じなのです。校外学習では、タバコの自販機、トイレの有無、生徒のニーズに合ったアミューズメントやショッピングの場所。遊園地などだったら、同日に予約を入れている他の学校まで調べます。学校によってはケンカが起こる恐れがあるためですね。
 担任を持った時には、生徒にこう提案しました。
「将来、困らないために、デートコースを遠足の場所にしよう」
 で、初めてのデートから、恋人として互いが認めあえたレベルまで三段階に分け、実益を兼ねて見合いやデートコースの研究にいそしんでいました。

 で、最初はよかった。
「大橋さんは、迷わないからいいですね。お見合いして、『どこ行こうか?』なんて、主体性の無いオトコなんて最低」
 で、三十回目ぐらいからは裏目に出ることがしばしばになってきました。
「大橋さん、慣れてますねえ……」
 で、当然、見合いしまくりのオッサンということがバレてしまう。

 あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり……であります。

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らいと古典・わたしの徒然草53『仁和寺の法師つづき』

2021-03-25 06:49:38 | 自己紹介

わたしの然草・53
『仁和寺の法師のつづき』   




徒然草 第五十三段

 これも仁和寺の法師のことです。

 童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞い出でたるに、満座興に入る事限りなし。

 仁和寺とは、京都市右京区御室にある、真言宗御室派の総本山。遅咲きの八重桜などが有名で、よくドラマのロケにも使われています。あまり知られていませんが世界文化遺産だったりもします。
 この仁和寺の法師の話は前段のほうが有名なのですが、この段も面白い。
 仁和寺のお稚児さんが目出度く正規のお坊さんになれるので、知り合いの仁和寺の坊主たちが集まって祝賀会を開きました。そのうち酔っぱらった坊主が、足鼎(三つ足の鍋みたいなの)を頭に被って踊り出します。  
  

 当時のお稚児さんというのは、かわいいもので、坊主たちは、しばしば女の子のように、そういう対象にしていました。この坊主もそんなお稚児さんの気をひきたかったのかもしれません。
 で、酔いが覚めて、その鼎を外そうとしても、顎や鼻が引っかかって外れなません(;゚Д゚)。むりやり引っこ抜くと、鼻ももげて、傷だらけになったという笑い話。
 しかし、よく考えると、鼎というのは口が広く、底の浅いものなのである。なんたって鍋のようなモノであります。被っても鼻のあたりまでくるぐらいのもので、口が広いので、被って抜けないということはあり得ません。

 要は、坊主の与太話なのだと思います。針小棒大というか、宴会で坊主がハメを外して鼎を被った話が大きくなっただけのもの。今風に言えば都市伝説でしょうね(^_^;)。

 こんな都市伝説があります。

 前世紀の末、まだ携帯電話が普及していなかったころの話です。あるタレントAさんが車でテレビ局に向かう途中、渋滞に巻き込まれてしまいました。とても本番には間に合いそうにない。そこで、車を降りて、公衆電話で放送局に電話をしました。
「ごめん、道路が渋滞でさ、ちょっと間に合わないよ……」
 渋滞と言っても、車の流れは少しずつ動いています。後続の車からクラクションを鳴らされ、このタレントさんは、早口で事情だけを話して、車にもどります。

 で、この早口がアダとなりました。

 電話を受けたテレビ局のオネエサンは、彼の早口と、興奮が憑りうつってしまい、担当のADに内線で、こう伝えました。
「Aさん、交通渋滞で間に合いません!」
 で、これが、伝言ゲームのようにディレクターの耳に入るころには、こうなります。
「Aさん、交通事故で重体で……」
「なんだって!?」
 警察に問い合わせたり、代役の手配、報道部では「Aさん、交通事故で重体!」のニュース原稿まで用意しました。
 で、大騒ぎの真っ最中、当の本人がひょっこりスタジオに姿を現し、みんなびっくりしたり、笑ったり。マネージャーも連れずに、名前のあるタレントが一人で放送局にくることなど、まず考えられず。これは仁和寺の法師の話と同列でしょう。

 こんな話もあります。

 ある高校生が夏休みに免許をとり、うれしくなって親父の車を借りて街に出ました。携帯で仲間を呼び、同乗者が増えた。五人になったところで困ってしまった。運転している高校生を入れると六人になり、乗り切れない。そこで、一人は車のトランクに入った。体の硬いやつで、みんなに手伝ってもらって、やっとトランクに収まった。

 これを近くで見ていた人が勘違いした。

 ――あ、拉致されてる!

 で、その人は警察に通報しました。パトカー五台と、ヘリコプターまで出動するという大騒ぎになってしまいました。一時は、府警本部の記者クラブまで話がいき、夕方のトップニュースになるところでありました。
 幸い、免許取り立てのヘナチョコ運転、すぐにパトカーに捕まり、ことの真相が明らかになりました。
 明くる日、担任の教師共々警察にお詫びに行って、お灸を据えられただけで、メデタシメデタシ。
 これ、都市伝説ではありません。わたしが現職だったころ、実際に起こった事件なのです(^_^;)。
 しかし、これを読んだあなたが、だれかに話し、そのだれかさんが、また他のだれかさんに話すころには、いろんな尾ひれが付いて、立派な都市伝説に成長しているかもしれません。

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