六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

生活者は負傷する。が、立ち上がって歩み始める!

2023-12-06 01:53:00 | フォトエッセイ

 5日夕刻、あちこち用件を済ませ最後の目的地スーパーへ。2~3日分の食品を求め駐車場へ。寒い日の夕刻とあって先程まで混んでいた駐車場もガラガラ。斜めに横切ってわが車の元へ急ぐ。

 体が宙に浮く。コンクリートに叩きつけられる。暗がりで分かりにくかった車止めに思いっきり躓いたのだ。

 痛みが全身を走る。うつ伏せになったまま動くこともできない。かなりの負傷だという自覚。瞬間、キャンセルしなければならない予定の数々が脳裏に浮かぶ。

 少し意識がはっきりしてくる。なんとか起き上がって座り込む。まだ立てない。

 この段階で負傷のの程度の確認。左手からは出血がぬるっと感じられる。右手は親指の付け根に擦傷か。右膝に痛みがあり、しかも下着にネットリ感があるから出血の模様。

 どうやら宙に浮いた身体を左手と右膝で主に支え、右手を擦ったようだ。しかし、気づけば右眉上あたりの顔面も痛い。勢い余って、ここをコンクリートにこすり付けたらしい。わが花のかんばせが台無しか。

 どうやら深刻な骨や筋肉の損傷はないようだ。擦傷が中心だから、スケジュールのキャンセルはなくて済みそうだ。

 ここまでの確認が3分ぐらいか。しかし、まだ立ち上がることができない。這いずるようにして買い物袋から飛び出たものなどを回収する。

 立ち上がるべく右手を地面についたら、ちょうど擦傷部分が地に触れて飛び上がるほど痛い。力士の立ち会いのようにこぶしをついてやっと立ち上がる。

 恐る恐る歩いて駐車した車のところへ。車の運転が可能かどうか屈伸運動などしてみる。右膝の皮膚面が痛むが、ブレーキやアクセルを踏む力はあることを慎重に確認。

 無事帰宅。夕食の支度などあるためティッシュなどで血の始末のみして、作業。

 夕食を終えて入浴の段階で最終チェック。一番ひどいのは右膝。ついで左手中指、薬指。それらに救急箱のありあわせのもので適当に手当。

 さあ、これでもう負傷は過去の出来事。生活者は常に前を向いて歩まねばならない。

 

             右膝と左手の応急治療

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かやくご飯は口中で爆発する? 付:道修町で思い出すこと

2023-12-02 14:29:56 | よしなしごと
 今季、二回目のぎんなんご飯を作った。
 弁当のおかずは、豆腐入りほうれん草青菜炒め、じゃがいもカレー煮、ちくわ煮付け、鶏胸肉そぎ切りソティと卵焼き。

         
 
 ご飯もおかずも、弁当に詰めた残りは昼餉に私が食べた。

         


 ところで、こうしたご飯になにか具を入れて炊くのを、私の子供の頃の疎開先では、まぜめめしとかまぜご飯、あるいは、五目入っていなくとも五目めしとか五目ごはんといったりした。
 関東や、いわゆる共通語では炊き込みご飯というらしい。

 一方、関西では「かやくご飯」とか「かやく飯」とかいうようで、なんか口に入れたら爆発しそうなイメージをもっていたが、実はこれ、「火薬」ではなく「加薬」だという。

 元はというと、室町時代、白飯の上に味付けした野菜などを乗せ、すまし汁をかけた食べ方が流行し、それが庶民にまで広がったものだという。それがなぜ「加薬」になるかというと、大阪に道修町という薬問屋の多い街があり、そこでは主成分の薬に補助的に混ぜるものを「加薬」といったが、そのうちに「混ぜる」という行為そのものを「かやく」というようになり、ご飯になにかを混ぜたもののことをかやくご飯とかかやく飯とかいうようになったのだという。

 こんなことを書いていて、ふと道修町に引っかかるものを感じた。というのは子供の頃、疎開先が大垣だったせいで、やはり大垣に住んでいた仲のいい従兄弟がいて、彼は中学卒業とともに大阪は道修町のけっこう大手の薬問屋に就職した。就職当初は寂しかったのか頻繁に私宛に手紙が来て、私もこまめに返事を書いた。

 そのうちに大阪に慣れたのか、そのやり取りも少なくなったが、何年かして出会う機会があり、一緒に飲んだりしたが、その際にはもうコテコテの大阪弁で、その顔つきまで関西人といった風貌になっていて驚いたことがある。
 その彼の一家は、親が亡くなったあと、その相続を巡って実家にいた長男とその他の兄弟姉妹との間でシビアーな闘争があり、それを機に、長男以外は実家とは縁切り状態になり、もう帰郷しない彼とも会えなくなってしまった。
 風のうわさでは、生来真面目だった彼は、その問屋が発展して薬メーカーになってからも重役クラスになったとのことだが、ほぼ私と同年代、健在だとしても、どこでどうしているかさっぱりわからない。
 でも、こうして思い出すと、どこか人懐っこいところがあった彼、そしてそのコテコテの大阪弁が懐かしく思える。

 この歳になると、すっかり忘却庫にしまわれてきたこと共が、ふとしたことで蘇る。
 ぎんなんご飯 かやくご飯 道修町 そして半世紀も会っていない従兄弟・・・・。

 

コメント (2)
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