今年最後のクリニックと調剤薬局行き。別に悪いところがあるわけではない。常用している薬の年末年始分の確保だ。
行ったのは午後4時すぎで、寒さがいや増す時間帯ではあったが、ここ2,3日、家から一歩も出ることがなく、まったく歩いていないことも考慮して、ついでに少し歩くことにした。
行ったのは午後4時すぎで、寒さがいや増す時間帯ではあったが、ここ2,3日、家から一歩も出ることがなく、まったく歩いていないことも考慮して、ついでに少し歩くことにした。
調剤薬局は、川の両岸に桜が列をなす箇所のはずれにある。その桜並木を歩く。ソメイヨシノの木々はおおかた葉を落とし、ほとんど裸の状態だ。
そんななか、真っ赤に色づいた葉を残す一隅があった。
その時念頭に浮かんだのは、先月、岐阜へ来てくれた名古屋の友人が、やはり桜並木のある長良河畔でふと語った一言であった。「亡くなったSさんは、桜の紅葉が一番キレイだと言ってました」がそれだ。
彼が語ったこのS君、六〇年安保をともに闘って以来、半世紀以上の友人であった。いま思い返しても、あれほどいろいろ語り合った友人はいない。しかし、いま私のうちに残るのは、鉛のように重くかつ苦い思い出である。
それは彼の晩年、些細なことで仲違いをして、それでもやがて仲直りができると信じていた矢先、それが叶わぬままに彼の病状が悪化し、逝ってしまったということだ。
それは彼の晩年、些細なことで仲違いをして、それでもやがて仲直りができると信じていた矢先、それが叶わぬままに彼の病状が悪化し、逝ってしまったということだ。
それから7~8年が経つ。彼の紅葉の好みを聞く機会を得たいま、桜の紅葉は私の中では特別な意味をもつに至った。冬の夕日に映える紅の葉たちは、幾分エキセントリックだった彼の言の葉を象徴するように、眩しく輝いている。
その葉たちの強烈な赤さに、どこか陰りがあるとすれば、それは私のなかに澱のようにとどまる悔いというほかはない。
その葉たちの強烈な赤さに、どこか陰りがあるとすれば、それは私のなかに澱のようにとどまる悔いというほかはない。