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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

植物の営み その生命力 (1)

2018-11-13 01:40:23 | 日記
 JR岐阜駅のバスターミナルに囲まれた一角はちょっとした庭園になっている。ここのウリは、県内の名桜の子孫が集められていて、いながらにしてそれらを楽しむことができるということである。淡墨の桜、臥龍桜、荘川桜などなどであるが、これらはみな、ソメイヨシノがつくられるよりも古い時代のエドヒガンザクラである。

 岐阜県下のこれら名桜は、それぞれ山間地にあり、開花時はそのロケーションによるが、岐阜駅前という平野に集められたその子孫は、本家より先に、しかもほとんど同時に開花し、それを愛でる者の眼を楽しませてくれる。

         

 しかし今回は、季外れの桜を語ろうとするのではない。
 それらの中に混じっている合歓(ネム)の木についてである。はじめての人は合歓と書いてネムとは読めないだろう。ではなぜこの字があてられたのか。やはりそれは中国にルーツをもつ。

 合歓(ごうかん)とは歓楽を共にすること、愛し合うものが共寝し、喜びを分かち合うことである。夜になると葉をぴったし閉じるこの植物の特徴から名付けられたものである。 
 毎夜毎夜では疲れるだろうという向きは合歓を即物的に捉え過ぎである(笑)。

         

 岐阜駅を利用する折、バスを降りるとエスカレーターでデッキのような通路を通って駅構内に入る。その横手にあるのが合歓の木である。だから、四季折々、それを観る。
 いまは実の季節である。最初、黄緑のモロッコインゲンのような実がぶら下がる。それらが熟し切ると、その鞘が褐色になる。

         

 そしてやがて、その実が弾け、次世代を担った種子が地上にばらまかれる。ただし、こうした人工的な庭園では、それらの繁殖はほとんど許容されないであろう。
 それでも必死に花や実をつける植物は、愛おしいではないか。

 植物は、基本的には動けない。だから、与えられたロケーションで自らの営みを展開するほかはない。変わらぬ植物の営為を左右するのはまたしても人間である。

         

 近代以降の人間は、環境世界と共存するというより、それらを対象や資源とし、支配し、取り込み、配列し直し、ときには排除し、絶滅に追い込む権限を謳歌している。
 こうした環境世界の支配が人間を豊かにしているともいわれる。効率の世界ではそうかもしれない。
 しかし、世界のもつアウラのようなものから超越したと自認している現今の人類は、かつての人類より本当に豊かになっているのだろうか。

 おっと、合歓の木の話からの脱線が激しすぎる。
 失われつつあるかも知れない「合歓」という言葉に引きずられて、いろいろ考えが膨らむのはいたし方ないだろう。


 上記の合歓の話、どこか既視感があると思ったら、2年ほど前、お友だちのブログで似たような話があり、私もコメントを付けています。
  参考までにその方のブロブを貼り付けておきます。

     http://blog.livedoor.jp/shography/archives/1060664946.html
コメント (2)
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