かつて、岐阜の揖斐川支流で稼働していた水力発電機が長良橋の少し上流にある岐阜市の上水道鏡岩水源地の敷地内に展示してあるというので、見に行った。
ある人を見舞っての帰りである。
たとえ、お見舞いといっても、病院の雰囲気は独特で、とりわけ最近の病院は機能本位に造られているだけに私のような老人を威圧するものがある。
まあ、そんな気分を和らげ、次の行動へのギア・チェンジのためといっていいであろうか。
平日の午後とあって人の気配は全くない。少し手前のかつての旅館街(ああ、なんと寂れてしまったことか。かつて、林立に近い状態だったのが、いまや10指で足りてしまうのだ!)には、鵜飼の開始までを散策で過ごす人も散見されたが、そこからわずか100m余り、ここまで来る人は皆無のようだ。
入り口を辿ると、いきなり「イノシシが出るよ~ん。注意しろよ」の看板が。
ロケーションは河畔にそびえる金華山と地続き、その山麓とあってさもありなんというところだが、注意しろっていわれてもこっちがお招きするわけではなく、先方様が勝手にお出ましになるのだから注意のしようもあるまい。
めげずに進むとそれらしいものが展示してある。
もっと巨大なものを予想していたがそれほどではない。高さにして3m前後であろうか。
説明書を読む。フムフム、明治41(1908)年からか・・・・、だとすると私の亡くなった父と同い年だなぁ・・・・なに?粕川で昭和57(1982)年まで稼働していた・・・・じゃあ、アマゴ釣りで何度も通った折に見たあのダムの下で動いていたわけだ・・・・粕川といえば家から一時間余りで行けるホームグランドみたいな川、この発電所を眼下に何度往き来したことか。ただし、私の釣り歴の最後の方ではもう停止していたことになる。
初対面の機械なのにどことなく懐かしい思いを禁じ得ないのはそうした因縁か、それとも、ハイテク機器がもつ冷たさとは違ったどこか人懐っこいレトロな機械がもつ独特の雰囲気のせいか。
細部も見て回る。と言っても生来、機械には鈍い方、ここから水が入ってこのタービンを回し、ぐらいしかわからない。しかし、おそらくはそれがこの機械のほとんど全てなのだろう。そして、だからこそその単純さが私に馴染むのだろう。
二、三箇所に貼られたプレートを読むと、この機械の製造(水車はモルガン・スミス、発電機はゼネラル・エレクトリック)や輸入元(やや薄れているが)、それに性能も分る。
ぐるりと一周して撮るべきところを写真に収める。
張り出した山の陰になって午後の陽射しが遮られ、少し涼しくなってきたのを機にその場を離れる。
蒸気機関がそうであったように、またこの水力発電がそうであったように、かつての技術は私達の身近にあって親しみやすく、またその原理の単純さもあって制御可能なものに思えた。
それから100年、膨れ上がったテクノロジーの数々はそのディティールの煩雑さを増し、あるいはまたその相互間の結びつきを生み出し、私のような市井の人間にとってはほとんどブラック・ボックス化してしまった。
それと同時にそれを管理する組織やシステムも特権化され、私たちにとっては不可視のところでその制御や決定が行われるに至った。
そのひとつの帰結が今回の原発事故である。
一見それは不意を襲ったかに見えながら、一部の人には予見できたものであり、事前に指摘されていたものであるという。しかし、それらは政官財の複合体の中では圧倒的な少数派であり、私たちの耳目からは慎重に遠ざけられてきた。
この事故を契機に、それらが可視化されようとするかに見えたが、再び霧の中へと隠されようとしている。
再稼働を巡る動きは、その情報の詳細を公開しないまま、予め定められた「儀式」によって決定を見るに至っている。
資源エネルギー庁から再稼働作業に入るよう指示が出たと関電が嬉々として発表したのは16日午前だったが、これは大フライイングで、実際に資源エネルギー庁からその指示があったのはその20分後であり、発表の時点ではまだその指示は出ていなかったという茶番すらあった。陸上競技ならその時点で失格だ。
しかし、「もうすでに密室で決まっていた」事柄にとっては、そんなことは「ちょっとしたミス」で、メディアもそれをエピソードとしてしか伝えない。
しかし、これが「民主的手続きを経た」「慎重な熟慮の結果」であるとしたらとてもそら恐ろしいことではないだろうか。
こんなことを考え合わせると、この100年以上前の頑丈で無骨な発電機に頬ずりしたいような懐かしさを覚えるのは私の老いのせいばかりではないようだ。
何れにしても居丈高で虚妄なシステムの魑魅魍魎と付き合うのは疲れる。それぐらいなら、山から出てくるイノシシのほうがはるかに可愛いというものだ。
*同じ敷地内にある岐阜市の上水道水源地の水の資料館も、水道開設以来1970年代まで現役だった建物で、長良川の石を積み上げて立てられたそれは登録有形文化財にも指定され、素敵な雰囲気を持っている。項を改めて紹介したい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120621-00000079-jij-pol
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20日成立した原子力規制委員会設置法の目的に「わが国の安全保障に資する」との文言が盛り込まれた。
→どうぞ、できるものなら、お好きなようにおやりになってください。できるものならね。お手並み拝借。
原発がなければ経済が止まるという聞き慣れた恫喝ですね。
幾多の反対を押し切ってそうした状況を作り上げておいて、それが破綻し今回のような事故に至ったら、今度はそれを逆手にとっての脅し・・・私には単なる現状肯定の想像力の枯渇としか思えません。
原発やめてドイツ経済は破綻しましたか?
原発を推進すれば経済は安泰ですか?
だいたい、経済問題をエネルギーにのみ還元することが幼稚といわねばなりません。
もしそれが本当なら、石油エネルギーを有り余るほど抱えている国々が当然、経済の面では先進国になるはずですよね。
しかし、そうではありません。
端的に言って、日本のものづくりを中心とした経済は、エネルギーには還元されません。
ただし、エネルギーは不要だといっているのではなく、将来にわたって危険をもたらし、その廃棄物の処理さえままならない原発はやめて、代替えエネルギーへとシフト・チェンジをしようといっているのです。
ほんとうに必要なら、なぜ京浜、阪神、中京経済圏に造らないのですか?おおい町の今年度の予算、108億のうち、58%に及ぶ63億が原発がらみの交付金などであり、通算して3,460億の金がつぎ込まれています。これって異常ですよね。
もしほんとうに原発が必要でしかも安全ならば、こうした過疎地に対し札束で頬を張るようなことをせずに、需要地帯の近くに、例えば緑区大高などに・・・(以下自粛)。
火力→CO2が出る
原子力→理解不能な脱原発論
だったどうしたらいいのか?
ユーロ危機、中国の膨張戦略、韓国製品の
世界シェアの急上昇・・・
円高の逆風の中で必死では働いて稼いでいる日本人がいる一方で、賢人気どりもいる。
電気が止まったら、死ぬ人がでる。
考えなければならないことはほかにたくさんある。
原発反対→杞憂という言葉を思い出した。
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再生エネルギーの利用でどんどん世界順位が下がる日本 http://markethack.net/archives/51826053.html @hirosetakaoさんから
120億もかけたこのシステム、昨年の3・11に関しては避難が問題になっている肝心なときにはそのデータが公表されず、2ヶ月後の5月にやっと出されたようですね。
福島では太平洋上に出た放射能が、大飯ではその風向からして関西、東海にまともに来るようですね。
恐るべき「伊吹おろし」。
大飯原発で被害を受ける地域:
http://iohome.web.fc2.com/osenmap/