六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の周りから消えてゆくものたちへの惜別の唄

2019-07-04 14:19:36 | 想い出を掘り起こす
 ここ何年もウオッチングしてきた田が今年は耕されない。すわ、耕作放棄かと思いきやオーナーが急死していたという悲劇は少し前に述べた。

        

 その少しあとに気づいたのだが、その他にもう一箇所、私が愛してやまない田が代掻きも済み、田植えをするばかりになっているにもかかわらず、結局稲の姿を見ることなく放置されている。いくら遅場米の産地といっても、もう今年の稲作には間に合わない。

        

 こちらの方は、荒れ放題ではなく整備されているし、水も引かれているのでどうしてこうなったのかはさっぱりわからない。
 この田についての私の執着は、その収穫時、毎年、稲架掛けをして天日干しにするため、私が少年時代を過ごしてきた田園風景を彷彿とさせるからだ。
 ちなみにこの下の2枚の写真は、昨年の10月12日に撮った同じ場所のものである。

        
        

 他にももう一箇所、稲架掛けをする田があったが、ここはもう何年か前埋め立てられ、ドラッグストアの敷地になっている。
 あの美しい稲架掛けがもう身近では見られないのかと思うとつくづく寂しい。

 この寂寞感は、私自身が大きなうねりの中に飲み込まれつつある・・・・あるいは既に飲み込まれてしまったという実感に通じるものがある。

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2 コメント

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>この寂寞感 (bb)
2019-07-16 12:27:39
「いつも見ていた山が消えたようなものだ」。二十歳過ぎに見た映画「海の壁」(監督:ルネ・クレマン)にあったセリフです。愛憎半ばする母親の急死に直面した姉弟と姉の恋人のだれかが言いました。さて、「何年もウオッチングしてきた田」が消えた。そこで想像したことは、目を閉じた状態で片足立ちのまま、どれだけ立っていられるかと問われている状態です。新しい「田」がなんとか見つかりますよう、念じております。
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追い詰められて (六文銭)
2019-07-16 15:06:00
>bbさん
 もう半世紀以上前ですが、私がここへ来た時、四囲はすべて田んぼで、それがジワジワジワ〜ッと包囲され、ついには、家から見える田が皆無となり、そればかりか、ご近所一帯の休耕田化、耕作放棄などが際立ってきました。
 市街化の貪欲な触手と同時に、都市近郊の小規模農業の経営難とが重なっての作用でしょう。
 そして、私が長年観察してきた田のように、耕作者の死は決定的です。もはや誰も火中の栗を拾おうとはしません。
 まあ、私が嘆いても詮無いことなのでしょうが。
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