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ヒトラーと措置入院 相模原事件についてのある考察

2016-07-29 16:14:01 | 社会評論
          

「ヒトラーの思想が降りてきた」
 被疑者は、自分が犯行に及ぶに至った思想的転換をこのように述べています。
 これはとても示唆的なのです。
 ようするに彼は、これによってひとつの「世界了解」を成し遂げ、行動の指針を得たわけです。

 では当のヒトラーはどうでしょうか。
 彼もはじめから「ヒトラー」であったわけではありません。
 当初は、貧富の差やさまざまな社会的矛盾に行き当たり、それについていろいろ悩む「普通の」青年でした。
 その彼に、「ヒトラー」が降りてくるのは意外に遅く、30歳の頃です。その折のことを彼はこう語っています。
 
 「この転換のために私には、最大の内面的精神的格闘が始まった。そして数か月の理性と感情の格闘の後に、ようやく勝利は理性の側に傾き始めた。二年後、理性が感情を追い払い、それ以後感情は理性のもっとも忠実な番兵となり、忠告者となった」(『わが闘争』より)

 いささか抽象的ですが、ようするにこの世界は「ユダヤ対アーリア民族」の生存を賭けた戦いの場であるという世界了解に到達した瞬間なのです。
 ですから「理性」とは「ユダヤ人を抹殺すべし」ということですし、「感情」とは、「いやいや、そんなことをしてはいけない」という「ヒューマニズム一般」を意味しています。

 いま、私たちが暮らすこの社会を問題含みだと考え、民族や国家などを中心に「あるべき人間」による共同体を夢みる一定の人々がいます。しかし、この「あるべき人間」、「あってはならない人間」という二分法に対しては、「ヒトラー」が降りてくる可能性は常にあるのです。
 それが降りてくると、「誰が生きていいのか」、「誰が生きてはいけないのか」を決める権利が自分にあるかのように思われます。今回の被疑者は明らかにそう思い、その通り実行したのでした。

 ヘイトスピーカー、過度の愛国民族主義者などのところへは「ヒトラー」は降りやすいし、すでに降りているのかもしれません。

           

「措置入院」について
 これについても論議が進んでいます。ようするに、この被疑者の場合、それを解くのが早すぎたのではないかということです。それについては厚労省が本格的に調査するようです。
 それが適切であったかどうかの検証は必要でしょうし、それ自体には異議はありません。

 しかし、措置入院を拡大解釈し、拘束者や拘束期間を拡大する方向のみを追求することには重大な懸念があります。
 私たちは、戦前、治安維持法下で、予防拘禁という制度をもっていました。これは精神病者も酔っ払いも、反体制的な思想の持ち主や政権批判をする者などなどをどれもごっちゃにし、なんの犯罪も行われていないのに、予め拘束してしまう制度でした。

 例えば、天皇が行幸する際など、その辺り一帯の精神病者や依存症患者、「危険」思想(主として左翼)の持ち主を一斉に拘束してしまうのです。その数はおびただしかったといいます。
 さらにはそれが拡大解釈され、なんのイベントもない時でも、当局の恣意によって「オイコラ、ちょっと来い」で身柄を拘束されることはザラでした。

 こうして措置入院の拡大解釈は、人権侵害の危険性を孕んだものになる可能性があるのです。

 今回の事件は、自分とは差異をもった人を抹殺するということでした。その予防措置が、今度は自分とは差異をもった人たちの自由を奪いその人権を損なう方向で考えられることはあってはならないのです。


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