取り立ててなんと言うこともない景観に、なぜかいとおしさを感じることがあります。
それは、対象がことさらに珍しいとか、綺麗であるとか言うレベルとはちがったもので、時としては平凡きわまりないものですらあります。
そこで感じるいとおしさとは、ある意味では、一期一会のようなものであったり、あるいは、既視感(デジャヴ)のようなものであったりします。
言ってみれば、その景観との出会いは種々の偶然の重なりによって生じたものにすぎないのですが、それが私にとっては大いなる命運がもたらした必然のように思えてしまうのです。
ここに掲げた写真も、どこにでもあるもので、私自身がこれらの特異性を語る術を持ち合わせてはいません。にもかかわらず、これらは私が出合うべくして出合ったもののように思えてしまうのです。
その瞬間、私はこれらの景観のうちに(外部から眺めるものとしてではなく)あるのです。
死期が近づいているのでしょうか?
<今週の川柳もどき> 06.6.25
卒論は米牛買うでまとめ上げ
米牛の輸入がポチの総仕上げ
買いますと言いに修学旅行です
(小泉政権の末期)
殺人という前線が停滞す
被害者と加害者ひとつ屋根の下
(殺人、しかも家族間で)
身びいきが終わりこれから本番に
決定力なさは民主にさも似たり
総裁は去らず監督すぐ変わる
(W杯)
戦争を「恥ずかしながら」伝えます
(横井庄一さんの記念館開館)
ダーウィンが竜宮城で待っている
(1830年頃ダーウィンが
連れてきた亀大往生)
獲る前に盗られてしまうサクランボ
(またもや・・)