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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

二度目の手術 顛末記あれこれ

2016-09-08 01:41:05 | よしなしごと
 以下は、今年2月に手首を骨折し、それを修正するための手術で埋め込んでいたT字型の金具を取り出す最終段階での手術で、ごく短い2日間の入院のレポート。

予告編と終幕 
 午前9時半、首の付根あたりからの麻酔が始まる。二の腕に電流のような痺れが走り、次第に効き出す。そしてしびれが手先の方へ降りてゆく。
 私は根が素直だから、その辺から意識がもうろうとして眠くなる。
 医師二人が患部の辺で話している。何か日常会話のようなものだ。ただし、どこのラーメンが美味いといった話ではなく、一応医学界などの情報のようだ。
 どこでメスが入ったのかはわからない。その頃は眠りのなかに引きずり込まれていた。
 
 気づくと、二人の会話がフェイド・インしてきて、何やらグイグイと引っ張られるような気がする。
 「縫合ですか?」と、当てずっぽうにいってみる。
 「あ、気づきましたか。そうです」と、医師。
 やがて、包帯という声が聞こえる。
 その辺りは意識がもうろうとしていてよく覚えていない。

 終わった。
 病室へ。自分でベッドに移動できるというのに、「そのまま」と指示され、何人かのナースさんによって「セーノ」とベッドヘ移される。
 
 なんだか、映画の予告編と本編の終幕だけを観たような感じ。

            

丸太ん棒を抱えて
 頭の方の意識は戻ってきたが、左腕は肩から先の感覚がまるっきりない。
 まるで左肩から先は、自分のものではない丸太ん棒をぶら下げている感じだ。
 自分の膝の上に乗せてみる。それも右手で物を移動するようにしなければならない。膝にはどっしりとした重量を感じるが、乗せている方の左腕にはなんの感覚もない。

            

 サイド・テーブルに乗せて写真を撮る。ドサッと乗せた感じでまるで荷物扱いだ。
 私の身体は、意識である前にまず物体であるという当たり前のことを改めて確認する。

            

 そのうちにナースさんがやってきて、そのままではうっ血するからと、ギブスと包帯の手を、天井からの点滴を支える器具からガーゼの紐で吊るされる。絞首刑ならぬ絞手刑だ。

               

 今回の麻酔はとてもよく効いた。12時間たってもまだ二の腕辺りまでしか感覚はない。いつ手が自由になるかを見届けたくて、起きている。
 何もすることがないから、読書が進んだ。本文だけで300ページ、注を加えると400ページの本を持ち込んだが、翌日の退院時までに250ページぐらいを読み進んだ。

『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』
 夜の11時半頃、さすがに手の感覚が戻ってきた。それと同時に傷口あたりがジンジンしはじめた。あまり痛くならないうちにと、ナース・ステーションへ行って、痛め止めをもらい、睡眠薬を一緒に飲む。
 疲れていたせいもあって、まもなく眠りにつく。

 「おーい、おーい」と呼ぶ声に眠りから引き戻される。どうやら、隣室の老婆らしい。「おーい、おーい」が連続して聞こえるがだれも駆けつける者はいない。
 おそらく彼女の毎夜の症状なのだろう。だから、たぶんナース・コールのボタンもはずされているのだろう。それでも、「おーい、おーい」が続く。
 彼女自身もそれが虚しい呼びかけであることをどこかで知っているのかもしれない。具体的な誰かの応答を求めるというより、自分の呼びかけ自体に呼びかけているのかもしれない。生きている証に。

 そんなに大きな声ではないが、気づいてしまった以上なかなか寝付けない。
 ふと、バッハのカンタータ140番『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』BWV140を思い出した。全曲30分余で、私もあまり通しで聞く機会はないが、その第4曲をオルガン用に編曲したもの(いわゆる「シューブラー・コラール集」の第1曲 BWV645)はけっこう耳にする。こちらは数分だから、聴きやすい。
 https://www.youtube.com/watch?v=NHhuyhlSSiA

 私も寝ぼけていて、もう6時頃だからと思い、起きようとしてカーテンを開けたら外は真っ暗。それもそのはず、まだ午前3時。もう一錠睡眠薬を飲んでもう一度眠りにつくが、けっこう時間がかかった。途中覚醒は私の悪癖だ。

七ヶ月間の逗留者たちとミステリー
 翌日、2度の点滴を終えたら退院ということで、それを急かせるようにして終え、午後に退院。
 退院までにもう少しコンパクトな包帯にしてくれるかと期待していたがダメだとのこと。骨から外した金具やネジ釘の穴が開いているから、当分は上の写真のままの、ギブスを入れた状態での包帯だという。
 これは家事に応える。洗い物などの水仕事がはかどらない。困ったものだ。
 今度は10日の通院、その折にいろいろいってみよう。

            

 退院の際に、おみやげを貰った。2月3日の最初の手術以来、私の手首に逗留していた金具と、それを止めたいたネジ釘である。それを術後、洗ってくれたのだ。
 よく見ると、中央のダルマ状の穴を含め、止める穴は11箇所、それに対して、ネジ釘は8本。ひょっとして、あと3本は私の体内に?
 でも、術後にレントゲンを撮っているから、そんなことはないなずだ。
 しかし、のんびりた医師で、「まあ、これぐらいいいだろう」で済ませていたら?
 今度の診察日に、そんなことを尋ねたら、どやされて、メスで切り刻まれるかもしれない。
 「先生、ありがとう」と本当は感謝しているのですよ。
 だからネジの2本や3本残っていても・・・(まだ言ってる。しつっこい!)。

 

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2 コメント

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手首に金具 (清水橋)
2016-09-08 08:47:10
なんだか、不思議ですね。あのような金具が入っていたなんて。強張りがなくなり、しなやかな動きの出来る元の手首になられますように。それにしても、たいした読書家ですね。
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書が書だけに・・・ (六文銭)
2016-09-09 11:13:32
>清水橋さん
 TVを観るわけでもなく、何もすることがないのです。そこで書が進みました。
 理論的なものですとそんなスピードでは読めません。この書は、研究書ではありますが、ナチスの第三帝国がモーツアルトを中心としたクラシック音楽を、どう「浄化=非ユダヤ化」し、対内的には、戦意高揚のドイツ精神養成の武器にしていったか、また対外的には、占領地での融和政策に利用したのかの史実を述べたもので、とても面白く読めたのです。
 ひとたびイデオロギーで汚染されてしまうと、その対象をどんどん歪曲し、ついには反対物にまで加工できるという、恐怖を伴う驚きの連続でした。
 いつかそれについて何かを書いてみたいという欲望をそそりますが、この書がすでに緻密に網羅し尽くしているので、屋上屋を重ねる恐れもあります。
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