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弟は私だったかも…映画『サラの鍵』を観て

2012-02-17 17:21:16 | 映画評論
 これは昨年公開された映画『黄色い星の子供たち』同様、占領下のフランス政府自身がコラボラシオン(対独協力)の名において行った「ヴェル・ディヴ事件」(10,000人以上のユダヤ人大量虐殺)を発端とする事態を描いている。
 ただし、それ自身の描写というより、60年後、それを追求してゆくアメリカの女性ジャーナリストの取材を通じて明らかにされてゆくサラという少女の運命、そして同時に、ジャーナリストとしての彼女自身の現実の生活上での問題が重ね合わされてストーリは進んでゆく。

               

 こんなふうにいうと主題が散漫なように思われるかも知れないが、その核心には60年前に収容れたユダヤの少女「サラ」とその「鍵」があり、物語がぶれることはない。また、それぞれの登場人物がさほど類型化されることなく、リアルに生きているのは原作ないしは脚本の良さだろう。
 過酷な運命とその後遺を引きずりながら生きた少女の一生と、それを追求する女性の何年間かの生き方とが入れ子状にオーバラップして観る者を惹き込んでゆく。

 例によって未見の人の妨げにならないようストーリーに関する叙述は最小限にするが、冒頭近く、ジャーナリストたちの編集会議で、若い男女のメンバーがフランス政府自身によるユダヤ人狩りがあったという事実を知らないという場面は、わが国においてもこの国がアジア諸国に攻め込んだことを知らない人たちがいる事実と照応していて風化する歴史を感じさせるものがあった。

               

 女性ジャーナリストの飽くなき探求に対し、ついにその夫は「事実を知ってそれがなにになるんだ」と反論するに至る。それに対して彼女は答える、「事実を知るのに代償がいるの?」と。
 
 この映画のキャッチコピーにも、また映画の冒頭にも姉弟が登場するので、その別離と再会が物語の中心かと思った。
 私自身が早くに母をなくし、実父がビルマ(現ミャンマー)で戦死したため、二歳年上の姉と離ればなれに育った(40年後にやっと再会)経験があるので、そちらに傾いたものを期待していたのだが多少違った。
 確かに再会はあるのだが、それはサラのトラウマとなる再会であった。
 オット、すこしネタバレに近づきすぎたようだ。

               

 子役のサラがいい。彼女のクルクル動くまなこを見ていると、いつしか自分もその視線で事態を見ているような気になる。男装シーンも良かった。
 フランス映画らしくちょっと洒落た、それでいてほろりとさせられるラストシーンの落としどころはじつに面白い。
 
 最近、映画や芝居でラストに子供が出てきたりすると、ついそこへと希望を託すように観てしまうのは、ひとえにこちらの年齢のせいだろうか。


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