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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

坂の町飯田と私&リンゴをもぐ中学生たち

2018-10-23 11:36:27 | 旅行
 先ごろの信州の旅、最後に立ち寄ったのは飯田である。
 最初に飯田という町の存在を知ったのは1947(昭22)年、この町が大火に襲われたときだった。約10時間ほど延焼しつづけたこの火事は、市の中心部など3742棟を焼きつくし、罹災戸数4010戸、罹災人員17,778人に及び、実に飯田中心街の約7割が失われたのであった。
 私が小学校3年生の春のことだった。

          

 その後、この町との縁ができたのは居酒屋を経営している頃で、出入りの酒屋の紹介で、私の店のオリジナル・ブランドといおうか、プライベート・ブランドといおうか、それをもつため、この地の「喜久水」酒造という蔵元を訪れた折である。

             

 等級は一応純米吟醸に絞り、蔵元が用意した6種類のテスト対象から、いちいち説明を聞き、自分の舌で確かめてからそのうちのひとつを選びだした。
 私の基準は、冷で提供するつもりだったから、香りを重視し、味は食い物の邪魔をしない淡麗系であった。酒の味が濃厚だと、肴類があまり進まないのだ。

          

 ブランド名は「もへいじ」にした。こうして私の店は、世界中どこにもない自己ブランドの酒を提供したのであった。
 店側のリスクは、年間一升瓶にして300本以上を引き受けることで、ほかに岐阜県産酒をお燗用にもってはいたが、それは楽勝だった。そうした大量仕入れだったからコスパもよく、顧客も値段の割に美味いといってくれた。

          

 そんなこともあって、契約やらその継続やら、若干の味の修正やらで、数回以上はこの町を訪れた。
 そのうちの2、3回はその中心部にある名所、数百メートルに及ぶリンゴ並木へも行っている。このりんご並木こそは、冒頭で述べた飯田大火の後、その復興を祈ってつくられたもので、飯田復興のシンボルとして、今ではこの町のランド・マークとなっている。

          

 ところがである、そのリンゴ並木に行ったいずれの機会にも、リンゴが実っているのを目撃したことがなかったのである。
 だから今回、この時期だからひょっとしてとわざわざ高速を降りて立ち寄った次第なのだ。

             

 というわけでリンゴ並木に行ったのだが、折からの小雨模様にもかかわらず、何やら騒がしい。
 並木のリンゴはたわわに実り、その樹下には若い嬌声が広がっていた。何というラッキー、その日はこの並木のリンゴを育てている飯田市立東中学校の生徒たちによる収穫の日だったのだ。

          

 リンゴの種類により、その収穫の時差があり、8月と10月(私が立ち会った日)と11月の3回に分かれるのだそうだが、この10月のものが間違いなくもっとも多い収穫であったと思う。
 リンゴをもぐ子らの表情は晴れやかで明るい。
 私にあんな表情が可能だったのはもう六十数年前のことだ。

          

 なんだかこちらまで爽やかな気分になって、次に訪れたのは、りんご並木から数十メートルという距離にある、川本喜八郎人形美術館。
 ここには、NHKなどでおなじみの、「三国志」や「平家物語」の人形劇で、その精巧な人形で名を成した川本喜八郎の作品が絢爛豪華なまま展示されている。

          

 ロビーの諸葛孔明像以外は撮影禁止なので、その実態を映像としてお伝えすることは出来ないが、それら人形のディティールまでの緻密さ、衣装の豪華さ、どれひとつ同じ表情のないそのオリジナリティ、それらにただただ感服するばかりだ。

          

 人形館を出ると、先ほどリンゴをもいでいた中学生たちが家路に帰るところだった。もいだリンゴのいいものは業者に卸し、その他はジャムやジュースの加工品にすると言っていたが、手にした袋には若干のリンゴが入っている。
 先ほどいろいろ尋ねた女の子だろうか、すれ違いざまの「失礼しま~す」の挨拶も清々しかった。

 人形館の写真、一番上は撮影を許可されたロビーで私が撮したもの
  下の二枚な館内撮影禁止のため、同館のHPから拝借したいろいろな人形像




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