桜が咲き始める頃に始まりそれが盛んに散り染める今日まで、礼服がタンスに憩う間もない怒涛の葬式三連チャンが終わりました。
終わったといっても、当分それがないことを仮定し、そう祈る限りのことですが。
これだけ続くと、ひとりひとりの死者への思いが希薄になるのではと心配してしまいます。事実、それぞれのひとがもはや還らぬという実感が薄いのです。
少し落ち着いて、本来会うべきところでその姿が見えなくなったりすると、きっと実感がこみ上げるのでしょう。
廃屋の秋
廃屋の春
話は全く変わりますが(変えたいのです)、私は結構廃屋フェチで、それがあると歩を止めてしげしげ眺め、写真に撮ったりします。
とりわけ年期が入った廃屋が好きです。家が傾き崩れ落ちるのはある種哀れを誘うことかも知れませんが、私が好きなのはそうした失われ行くものへの感傷によるものではありません。
むしろ、崩れ失われる反面、そこに新たに宿る新たな風貌のようなものに関心があるのです。
廃屋部分 秋
廃屋部分 春
それは徹底した風化・崩壊であったり、植物たちの進出であったりします。いずれにしても年期の入った廃屋はその風雪を刻み込まれた新しい貌を日々新たにします。
そこには、人が去ってから幾ばくもしない間に取り壊され、新しいものが建って、古いものの記憶を一切合切もぎ取るという力任せの変化とはまた違う趣があるのです。それが廃屋の魅力です。
廃屋 別アングルから 秋
廃屋 別アングルから 春
ここに載せたものは、私の家の近くの廃屋で、昨年の秋と今年の春に、ほぼ同じアングルで撮ったものを比較してみました。
崩壊の進行と季節の彩りとが微妙に違って面白いと思うのです。
夏になると、植物の様相が一層鮮やかになるはずです。
裏側から 春
もはや、取り壊しも再建も不可能な私には、廃屋が奏でる音楽やささやきが聞こえるのです。その自己主張も聞こえます。
廃屋は死滅しつつあるのではない、変化しつつあるのであって、廃屋というジャンルを立派に生ききっているのだと・・。
廃屋を死滅として否定的に捉えるのは人間の功利主義的パースペクティヴによるものにすぎません。
よく見ると、廃屋はそれ自身、美しいはずです。
*次回は、廃屋が取り壊され、幾分キッチュな風景になった様相をお届けする予定です。
終わったといっても、当分それがないことを仮定し、そう祈る限りのことですが。
これだけ続くと、ひとりひとりの死者への思いが希薄になるのではと心配してしまいます。事実、それぞれのひとがもはや還らぬという実感が薄いのです。
少し落ち着いて、本来会うべきところでその姿が見えなくなったりすると、きっと実感がこみ上げるのでしょう。
廃屋の秋
廃屋の春
話は全く変わりますが(変えたいのです)、私は結構廃屋フェチで、それがあると歩を止めてしげしげ眺め、写真に撮ったりします。
とりわけ年期が入った廃屋が好きです。家が傾き崩れ落ちるのはある種哀れを誘うことかも知れませんが、私が好きなのはそうした失われ行くものへの感傷によるものではありません。
むしろ、崩れ失われる反面、そこに新たに宿る新たな風貌のようなものに関心があるのです。
廃屋部分 秋
廃屋部分 春
それは徹底した風化・崩壊であったり、植物たちの進出であったりします。いずれにしても年期の入った廃屋はその風雪を刻み込まれた新しい貌を日々新たにします。
そこには、人が去ってから幾ばくもしない間に取り壊され、新しいものが建って、古いものの記憶を一切合切もぎ取るという力任せの変化とはまた違う趣があるのです。それが廃屋の魅力です。
廃屋 別アングルから 秋
廃屋 別アングルから 春
ここに載せたものは、私の家の近くの廃屋で、昨年の秋と今年の春に、ほぼ同じアングルで撮ったものを比較してみました。
崩壊の進行と季節の彩りとが微妙に違って面白いと思うのです。
夏になると、植物の様相が一層鮮やかになるはずです。
裏側から 春
もはや、取り壊しも再建も不可能な私には、廃屋が奏でる音楽やささやきが聞こえるのです。その自己主張も聞こえます。
廃屋は死滅しつつあるのではない、変化しつつあるのであって、廃屋というジャンルを立派に生ききっているのだと・・。
廃屋を死滅として否定的に捉えるのは人間の功利主義的パースペクティヴによるものにすぎません。
よく見ると、廃屋はそれ自身、美しいはずです。
*次回は、廃屋が取り壊され、幾分キッチュな風景になった様相をお届けする予定です。
「継続は力」と言いますが、「継続はマンネリ」となることが大方であります。
逝ったMの名義で借りてある集いの会場も、予約は七月まで。ならば廃屋化の方途は、その昔あった流れ解散といったデモ方式の中にある、と落花しきりの中で思いつきました。
多田道太郎がとある書評で次のように述べていました。
立原道造は「すべての建築は結果において廃墟となる。ゆえに建築は廃墟までを想定して構築されねばならぬ」という意味のことを述べた。
>廃屋が奏でる音楽やささやきが聞こえるのです。その自己主張も聞こえます……
廃屋の持つその生命をどう考えるか。また引用ですが、4月7日付けで紹介のあった伊藤益臣氏の「ひとつの昭和精神史」の雄渾な次のメッセージと共振していますね。
折原脩三の『老いるについて』(八十年)は、〈中略〉現象としての汚穢で非生産的な「老い」と同時に、英知、無垢、聖性、自由な遊びという属性をもつ「老いる」が交錯して共鳴りをはじめる〈後略〉
やっと忌憚なく話が出来る場に出会ったのにと、個人的にはとても残念ですが、おっしゃる気持ちも分かるように思います。
「流れ解散」とは面白い比喩ですね。
流れ解散といわれながら、それに従わず、そのまま座り込んで気勢を上げていて、パクられそうになったのを思い出します。
>bbさん
ご丁重なご論評ありがとうございます。
そうなのです。廃墟はたかだか人が去った後のその残響であったり、あるいは終焉であったりと、せいぜい感傷の対象にされるに過ぎませんが、しかし、オブジェとしての廃墟はそれ自身の始まりとしてさらなる変幻のうちにその身を晒しているわけです。
bbさんが鋭くも喝破されましたように、私はここで、折原ー益臣氏が共鳴している「老いを動態として生きる」を意識しています。
廃屋は、終わったものの象徴ではなく、なおかつ在るということに力点を置いて見続けたい対象なのです。