あの『ゆれる』を撮った西川和美監督の最近作だというので観に行った。
あの作品での香川照之とオダギリジョーの絡みは抜群であった。
で、今回の作品の主演は笑福亭鶴瓶だという。
どうしてだろうと思った。
お笑い芸人を馬鹿にしているわけではない。
ましてや鶴瓶は、裸でふざけ回っているような芸人ではない。
にもかかわらずなぜ鶴瓶かという疑問は残った。
それほど前作の印象、とりわけラストの二人の絡みが印象に残っていたからだろう。
映画を語る常として、見ていない人にネタバレはよくないと思う。
だから詳細は書かないが、やはり鶴瓶で正解だと思った。
シリアス一本槍でも、ふざけすぎてもいけない役どころなのだ。
それをそつなく演じていた。
TVなどでの匂いをうまく消していたのも好感が持てる。
もうひとつ私を満足させたのは八千草薫の出演であった。
パッとした華やかさはないが、散りそうで安易には散らない芯を持ったひとである。
その台詞回しもゆったりとしていていい。
永遠のマドンナといっては言い過ぎだろうか。やや控えめな笑顔がすばらしい。
この八千草薫と鶴瓶の絡みがまたいい。
ある種エロティックでもあり、嫉妬したくなるくらいなのである。
映画評論的にはいろいろ言えるだろう。
地域医療の問題が云々侃々、冷たい本物より暖かい偽物・・・などなど。
確かにそれもあろう。
というか、監督にはその志向が強いのかも知れない。
しかし、私にはこれは鶴瓶と八千草薫の恋愛物語に見えた。
だから私は嫉妬したのだ。
ラストシーンの八千草薫の嬉しそうな表情は、私の嫉妬心をいやが上にも燃え立たせるのだった。
*八千草薫主演『蝶々夫人』(1955年)を当時観ています。
日伊合作で、イタリアで撮影されました。
もちろん主役の蝶々夫人は八千草薫で、今から半世紀以上前の初々しい蝶々さんでした。口パクではなく本人の歌だったらということですが、それは望むべくもないでしょう。
そのとき、実際に歌っていたのはイタリアのソプラノ歌手、オリエッタ・モスクッチイという人だそうです。
あの作品での香川照之とオダギリジョーの絡みは抜群であった。
で、今回の作品の主演は笑福亭鶴瓶だという。
どうしてだろうと思った。
お笑い芸人を馬鹿にしているわけではない。
ましてや鶴瓶は、裸でふざけ回っているような芸人ではない。
にもかかわらずなぜ鶴瓶かという疑問は残った。
それほど前作の印象、とりわけラストの二人の絡みが印象に残っていたからだろう。
映画を語る常として、見ていない人にネタバレはよくないと思う。
だから詳細は書かないが、やはり鶴瓶で正解だと思った。
シリアス一本槍でも、ふざけすぎてもいけない役どころなのだ。
それをそつなく演じていた。
TVなどでの匂いをうまく消していたのも好感が持てる。
もうひとつ私を満足させたのは八千草薫の出演であった。
パッとした華やかさはないが、散りそうで安易には散らない芯を持ったひとである。
その台詞回しもゆったりとしていていい。
永遠のマドンナといっては言い過ぎだろうか。やや控えめな笑顔がすばらしい。
この八千草薫と鶴瓶の絡みがまたいい。
ある種エロティックでもあり、嫉妬したくなるくらいなのである。
映画評論的にはいろいろ言えるだろう。
地域医療の問題が云々侃々、冷たい本物より暖かい偽物・・・などなど。
確かにそれもあろう。
というか、監督にはその志向が強いのかも知れない。
しかし、私にはこれは鶴瓶と八千草薫の恋愛物語に見えた。
だから私は嫉妬したのだ。
ラストシーンの八千草薫の嬉しそうな表情は、私の嫉妬心をいやが上にも燃え立たせるのだった。
*八千草薫主演『蝶々夫人』(1955年)を当時観ています。
日伊合作で、イタリアで撮影されました。
もちろん主役の蝶々夫人は八千草薫で、今から半世紀以上前の初々しい蝶々さんでした。口パクではなく本人の歌だったらということですが、それは望むべくもないでしょう。
そのとき、実際に歌っていたのはイタリアのソプラノ歌手、オリエッタ・モスクッチイという人だそうです。
「岸辺のアルバム」と「阿修羅の如く」の彼女が忘れられません。贔屓の山田太一、向田邦子作品であったこともありますが、旧壁に挑んだ彼女のなんと果敢であったことか。それは、サンコのおばままを始め、多くの同時代人たちが挑んだ壁でもありましたが、それはそれ、おばままと同じく、スラックス姿の77歳の彼女のなんと美しかったことか。
いつまでも美しい人ですね。前の欄の、瓢箪に纏わる思い出は、短編にしたら、泣かせますね。
瓢箪の花は、白くてレースのような儚く美しい花です。
私も短い一人暮らしの日々の中で、瓢箪を育て、お風呂の水に一日冷やして、それから種を出しました。得がたい一人暮らしを、記念して、今も持っています。