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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「ハルツゲコムラサキ」という「私的言語」と春

2019-02-24 17:07:45 | 花便り&花をめぐって
 春夏秋冬を明らかにするため、暦の上に立冬だとか立春などと区切りを入れる。もちろんこれは目安にしか過ぎず、実際の季節の移行はグラデーションの期間を経て次の季節へと至る。
 だから、実際の季節の変化についての実感は、私たち一人ひとり経験、ないしは自分のもつメルクマール(指標)によるところに従う。
 ようするに、どこそこのどの花が開いたから春、どこそこへどの鳥が来たから春、どこそこのどの山の雪が溶けたから春、といった具合だ。だから私たちは、それぞれ、自分の春を、そして自分の四季をもっている。


            
 ただし、地球上のいろんな土地は、私たちと同じように四季をもたないところもあるし、年間を通じて変化の乏しい地域もある。にもかかわらず、そこに住む人たちは、私たち以上に微細な変化を感知するアンテナで、年々の周期を感得している。

 なんか大上段に振りかぶったが、人それぞれに季節の移り行きに、今なら春の到来に、自分なりの指標をもっているということである。


                   
 私の話に限定しよう。先ごろ、亡父譲りの紅梅の鉢の開花をみた。しかし、私の場合、これをもって春の到来と断言しかねるのだ。というのはこれまで、せっかく咲いた紅梅の上に雪が降り積もった光景を2、3度経験しているからだ。

            
 私にとっての春の指標は、うちにあるサクランボのなる桜の開花である。この開花は、ソメイヨシノに比べると2週間から20日ほど早い。毎年、3月10日頃にはかなりの花をつけている。
 その蕾が、今年はもう、ご覧のように膨らんでいる。このまま2月が暖かければ、今月中に開花がみられると思われる。これは例年よりかなり早い。

        

 もう一つは、私がいつも通りかかる田んぼののり面にあるイヌフグリの開花だ。この可憐な花にフグリとはなんぞと同情は禁じえないが、まあ、それはそれでいいのではと思い始めている。まあしかし、できれば「ハルツゲコムラサキ」などの優雅な名のほうがいいだろう。あ、これはイヌフグリの別名ではなく、勝手に私がそう呼んでみただけである。

 まあ、彼ら自身は人間の名付けなどとはお構いなしに、まさに春を告げる紫の小さな花をつけるのだが、私の住まいするこの近辺では、ちょっとした危機に見舞われているともいえる。
 かつてはいたるところにみられた彼らが、最近は希少になりつつあるのだ。

            
 ひとつは、彼らの棲息地である田んぼののり面がなくなったことによる。
 道路から田へと斜面があり、その斜面にわがイヌフグリやタンポポ、スミレ、山菜のノビルなどがのびのびと生育するというのがこれまでだった。それが整備され、それらののり面は、道路から田へと垂直に切り立つコンクリートの壁にとって変られた。こうして上に述べた植物群に加え、ハルシオンや野アザミ、すかんぽを見ることもめっきり減ってしまったのだ。

 さらには、それら田んぼの埋め立てによる市街地化の進行もある。もちろん、それによって埋め立てられた土地にあった彼らは姿を消すのだが、それだけではない。埋立地には住宅やアパートなどの建造物が建つ。そうすれば当然日影が生まれる。
 そうした日影に、わがイヌフグリはめっぽう弱いのだそうだ。ある随想によれば、マンションの日陰になったイヌフグリの群落が全滅したとのことである。

            
 ようするにイヌフグリは、とりわけ陽あたりを好むといえる。それだけに、私が命名したように、まさに、「ハルツゲコムラサキ」なのである。
 先日、私が毎年ウオッチングをしている場所で、イヌフグリが健気に花をつけているのを確認した。

 私の春が、やってきた。
 
    真先に笑ひかけしは犬ふぐり  小山徳夫
    日の当る処に座り犬ふぐり    大東二三枝

 上の二句は、いずれも私が上に書いたことを裏付けているようだ。

 沖縄の県民投票を気にしながら・・・・。





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