「お前の歳で生意気にブログなんかやっていると、しばらく中断すると、あゝ、あいつもとうとう逝ったかと思われるぞ」と口の悪い友人に言われたのはいつ頃だったろうか。
たしかにその年令に差しかかっている。昨日も同級生の訃報を聞いた。
しかし、「どっこい生きている」といおうか、「憎まれもの世にはばかる」といおうか、なんとか命脈は保っている。
一週間以上更新から遠ざかっていたのは、私が所属する団体のブログを開設していたり、しかもその不具合があったため、始めっから作りなおしたりというドジなことをしていたからである。おまけにその開設の案内も出し直しという二重手間だ
それでその開設をとりあえず五十数名の方にメールしたところ、儀礼的なもの、これを機会に近況報告など、多数のメールが送られてきてその応対に二日程かかってしまった。
17日は久々に名古屋へ出て、映画とコンサート。両方とも、本当に久しぶりなのだ。
映画は、角田光代原作、吉田大八監督、宮沢りえ主演の『紙の月』。
「紙の月」という言葉は子供の頃から知っている。アメリカンポピュラーのスタンダードナンバーで、“It’s Only A Paper Moon”をよく聴いていたからだ。
私たちは誰しも「紙の月=Paper Moon」をもっている。それは多分、ラカンのいう「対象a」のようなものだろう。それは他者から見たらなんでもないものだが、自分にとってはその存在がかかるものでもある。しかしそれは強固でも持続するものでもなく、壊れやすい。
何度も回想される主人公の女学校時代の映像は彼女の「対象a」のありかを示唆している。
映画について詳しくは語らない。ただ、宮沢りえさんは特異な存在だと思う。彼女の主演の映画はかなり観てきたが、どの映画でもちゃんとその役を演じきっているにもかかわらず、どこかそれが「宮沢りえ」であることが鮮明に残ってしまうのだ。映画を観たあと、私の中にはほかならぬ「宮沢りえを観た」という感が残る。
『桐島、部活やめるってよ』の吉田監督の演出は手堅い。
それに脇がその個性を十分に発揮している。
たしかに幸せは、“It’s Only A Paper Moon”で、手でなぞれば消えてしまうものかもしれない。でも、本物のお月様が入手不可能だとしたら、私たちはいつも「紙の月」を求めざるを得ない。そして彼女はそれを紙の月と半ば知りつつもそれを突き詰めて求めた。
映画からコンサートへの移動の途中、本を2冊買う。
一冊は私の友人が懸命に読み返しているもので、私自身も読み継いで、意見を交換したいと思っている加藤典洋の評論。もう一冊はしばらく前、日本語論を勉強していてさまざまな示唆を受けた多和田葉子さんの最新の作品集。
コンサートはゲヴァントハウスの首席チェリスト、ユルンヤーコブ・ティム+名古屋在住のピアニスト、水村さおりによるもの。
曲目は以下のとおり。
1)ベートーヴェン 「魔笛」の主題による7つの変奏曲
2)バッハ 無伴奏チェロ組曲第五番
3)ベートーヴェン 「魔笛」の主題による12の変奏曲
4)ブラームス チェロ・ソナタ第一番
プログラムの構成が面白い。1),3)はベートーヴェンのモーツァルトへのオマージュ、そして4)はベートーヴェンのチェロ・ソナタ第五番と同様3楽章の構成で、その第三楽章ではバッハの「フーガの技法」の主題を引用しているという、バッハやベートーヴェンへのオマージュで、全体が繋がっている。かくしてモーツァルトと三Bが連なる構成になっているのだ。
個人的に面白かったのは3)で、ピアノの出番が多く、ほとんどの変奏で、チェロとピアノがひとこと、みことと囁き交わすようなパートがあって、ベートーヴェンが漫才かコントの台本を書くように、含み笑いでもしながら作曲した痕跡がみてとれてとても楽しかった。
変奏曲の名人といわれたモーツァルトと、それに引けをとらないベートーヴェンとの「生きた交流」がここにはある。
https://www.youtube.com/watch?v=3CKhipWXppQ
なお、これらの曲がここまで生き生きしているのは、タミーノやパミーノにではなく、その主題をパパゲーノとパパゲーナにとったからだと思っている。
大体、「魔笛」というオペラの啓蒙くさい部分は好きではない。その啓蒙からも漏れたパパゲーノやパパゲーナ、それに夜の女王のほうが遥かに魅力的だ。
終幕、パパゲーノとパパゲーナがたくさんの子宝に囲まれて踊り狂うシーンこそ、次なる啓蒙の時代をも飛び越えて、やがて物言わぬとされた民衆の世界へ至ることが示唆されているかようだ。
岐阜へ着いたら最終バスで、しかもうちからはすこし遠い路線。なんということだ、バスを降りてしばらくしたら驟雨。幸いさほど雨脚は強くなかったが、しとど濡れて帰宅。
ただし、一日の歩数は8000歩と多分今月最高を稼いだと思う。
たしかにその年令に差しかかっている。昨日も同級生の訃報を聞いた。
しかし、「どっこい生きている」といおうか、「憎まれもの世にはばかる」といおうか、なんとか命脈は保っている。
一週間以上更新から遠ざかっていたのは、私が所属する団体のブログを開設していたり、しかもその不具合があったため、始めっから作りなおしたりというドジなことをしていたからである。おまけにその開設の案内も出し直しという二重手間だ
それでその開設をとりあえず五十数名の方にメールしたところ、儀礼的なもの、これを機会に近況報告など、多数のメールが送られてきてその応対に二日程かかってしまった。
17日は久々に名古屋へ出て、映画とコンサート。両方とも、本当に久しぶりなのだ。
映画は、角田光代原作、吉田大八監督、宮沢りえ主演の『紙の月』。
「紙の月」という言葉は子供の頃から知っている。アメリカンポピュラーのスタンダードナンバーで、“It’s Only A Paper Moon”をよく聴いていたからだ。
私たちは誰しも「紙の月=Paper Moon」をもっている。それは多分、ラカンのいう「対象a」のようなものだろう。それは他者から見たらなんでもないものだが、自分にとってはその存在がかかるものでもある。しかしそれは強固でも持続するものでもなく、壊れやすい。
何度も回想される主人公の女学校時代の映像は彼女の「対象a」のありかを示唆している。
映画について詳しくは語らない。ただ、宮沢りえさんは特異な存在だと思う。彼女の主演の映画はかなり観てきたが、どの映画でもちゃんとその役を演じきっているにもかかわらず、どこかそれが「宮沢りえ」であることが鮮明に残ってしまうのだ。映画を観たあと、私の中にはほかならぬ「宮沢りえを観た」という感が残る。
『桐島、部活やめるってよ』の吉田監督の演出は手堅い。
それに脇がその個性を十分に発揮している。
たしかに幸せは、“It’s Only A Paper Moon”で、手でなぞれば消えてしまうものかもしれない。でも、本物のお月様が入手不可能だとしたら、私たちはいつも「紙の月」を求めざるを得ない。そして彼女はそれを紙の月と半ば知りつつもそれを突き詰めて求めた。
映画からコンサートへの移動の途中、本を2冊買う。
一冊は私の友人が懸命に読み返しているもので、私自身も読み継いで、意見を交換したいと思っている加藤典洋の評論。もう一冊はしばらく前、日本語論を勉強していてさまざまな示唆を受けた多和田葉子さんの最新の作品集。
コンサートはゲヴァントハウスの首席チェリスト、ユルンヤーコブ・ティム+名古屋在住のピアニスト、水村さおりによるもの。
曲目は以下のとおり。
1)ベートーヴェン 「魔笛」の主題による7つの変奏曲
2)バッハ 無伴奏チェロ組曲第五番
3)ベートーヴェン 「魔笛」の主題による12の変奏曲
4)ブラームス チェロ・ソナタ第一番
プログラムの構成が面白い。1),3)はベートーヴェンのモーツァルトへのオマージュ、そして4)はベートーヴェンのチェロ・ソナタ第五番と同様3楽章の構成で、その第三楽章ではバッハの「フーガの技法」の主題を引用しているという、バッハやベートーヴェンへのオマージュで、全体が繋がっている。かくしてモーツァルトと三Bが連なる構成になっているのだ。
個人的に面白かったのは3)で、ピアノの出番が多く、ほとんどの変奏で、チェロとピアノがひとこと、みことと囁き交わすようなパートがあって、ベートーヴェンが漫才かコントの台本を書くように、含み笑いでもしながら作曲した痕跡がみてとれてとても楽しかった。
変奏曲の名人といわれたモーツァルトと、それに引けをとらないベートーヴェンとの「生きた交流」がここにはある。
https://www.youtube.com/watch?v=3CKhipWXppQ
なお、これらの曲がここまで生き生きしているのは、タミーノやパミーノにではなく、その主題をパパゲーノとパパゲーナにとったからだと思っている。
大体、「魔笛」というオペラの啓蒙くさい部分は好きではない。その啓蒙からも漏れたパパゲーノやパパゲーナ、それに夜の女王のほうが遥かに魅力的だ。
終幕、パパゲーノとパパゲーナがたくさんの子宝に囲まれて踊り狂うシーンこそ、次なる啓蒙の時代をも飛び越えて、やがて物言わぬとされた民衆の世界へ至ることが示唆されているかようだ。
岐阜へ着いたら最終バスで、しかもうちからはすこし遠い路線。なんということだ、バスを降りてしばらくしたら驟雨。幸いさほど雨脚は強くなかったが、しとど濡れて帰宅。
ただし、一日の歩数は8000歩と多分今月最高を稼いだと思う。