「音楽は音ではない」といういささか乱暴な考えをもっていた時期があります。
むろん、音なくして音楽は成立しえないのですから音が不要だというわけではありません。ようするに、音楽を聴くということはは配列された音の一群を聴覚でもって享受するということなのだろうかという疑問です。あるいは、もっといえば、「音楽は心で聴く」という観念論的主張ともいえます。
浅川マキライブ会場にて
なぜこんな考えを抱くに至ったのかの経緯は単純です。
私が音楽なるものに始めて接したのは敗戦後のどさくさ紛れで、チューニングが極端に悪く、その曲の本来のフォルテシモやピアニシモとは無関係に音が波打つように大きくなったり小さくなったり、はたまた、途中で聞こえなくなったするような真空管ラジオによってでした。
ですから、ドボルザークの九番「新世界から」の第二楽章のあの有名なイングリッシュホルンによる主部の主題のメロディもまともに聴いたことがありませんでした。シューベルトの「未完成」の第一楽章のあの出足についても同様でした。
かすかに聞こえる音楽にオーバーラップしてどこか外国の言葉などが時折風に乗るかのように割り込んでくることはざらでした。
聞こえないところは空想力で補って聴く、これが一般的で、ある種の精神修養であるかのように忍耐を伴った作業の結果として音楽が与えられたのでした。
CDコンサートへ向かう途上の冬の柳
冒頭に述べた暴論(=音楽は音はない)は、そうした環境下にあって、しかもその後もオーディオ装置に手間暇をかけてこなかった貧乏人のひがみによるものと思われます。偉そうに、それに積極的な意味さえ与えようとしていたのですからお笑いぐさです。
音のよい環境で音楽を聴いた方がいいのは当たり前です。
作曲家はどんな音をどう構成するかに骨身を削り、演奏者はどんな音を表出するかを競い、それらを収録したり放送したりする技術者たちもまた、オリジナルの再現に、あるいはアレンジされた音響にと自分の技能を傾けるのですから・・。
それを最後の再現部分で台無しにするのではなく、ちゃんとした音として聴き取ることはそれら音楽の評価以前の行為として必要なのでしょう。
同じく冬のモクレン
チュ-ニングの悪いラジオの話に戻ります。猫の目のような円い緑のランプ部分でチューニングが視覚的に出来るマジックアイつきの懐かしいラジオなどもありましが、あれは民放局が増えて、度々チューニングを行わなければならない必要に応じたものだったようです(某国のラジオは、海外の放送が受信できないようチューニングが固定されているというのは本当でしょうか)。
しかし、それによって飛躍的にチューニングがよくなったわけでもなかったようです。
チューニングの悪いラジオから解放されたのは1950年代後半から始まった半導体使用のトランジスタラジオからでした。
これはラジオの歴史においては画期的かつ革命的であったと思います。ラジオを小型化し、ポータブルな利用を可能にし、車への搭載をも可能にしたのでした。
どこでも誰でもラジオが気軽に聴ける、これはそれまでのように一家に一台ラジオが存在し、そのチューニング権は家父長が握るという時代の終わりを告げていました。
ラジオにおける民主主義の拡張です。それと共に、ラジオをこぞって聴くという様相から個的に聴くという状況も確立されました。
オーディオ装置メイン・アンプ 真空管の蘇り
それに、テープによる再生機能の充実などは、これまでのレコード盤を遙かにしのぐ勢いで人々に浸透しました。それにより、番組表に従って受動的に音楽を聴くという状況も一変しました。収録媒体を通じて、音楽を所有できるようになったのです。
こうして、脱-真空管が果たした役割は大きかったと思います。それがさらに今日のデジタル化と相まって音楽を巡る環境はすっかり様変わりしました。
スピーカーなど
最近、オーディオ装置にこだわりを持つ人が持ち込んだご自慢の装置一式に、「この一枚」というCDを持ち寄った「CDコンサート」を聴きました。
さすがすばらしい音色です。高音はあくまでもシャープに輝いていて、低音は最低部でもクリアーで、チェロのピアニシモなど、一本一本の弦が震えているのが手に取るように感じられます。
もちろん楽曲全体の再現もすばらしく、その曲のもつ可能性をすべからくあらわにして迫るかのようでした。
しかし、歴史は巡るというのでしょうか、それらの装置のプリ・アンプもメイン・アンプも真空管式でした。
私自身、そうした装置の概要には暗いのですが、興味のある人のために、当日の装置を以下に記します。
1,CDプレイアー:デノンDSD-S10Ⅲ
2,プリ・アンプ:英QUAD QC-24(真空管式)
3,メイン・アンプ:WE-300B シングル・ステレオ 出力8W×2(真空管式 提供者自作)
4, スピーカー:英ローラ・セレッション Ditton-66 Studio Monitor(3Way) ×2基
この装置は?
私にはそれがどれほどのものか評価する能力はありませんが、これらがきわめて心地よい音をもたらしてくれたのは事実です。
ライブとはまた違った意味での、というか、よりクリアーな音の緊迫感がありました。
酔い痴れるような音色といってもいいでしょう。
しかし、こうした心地よい音に接するという快楽と、そこからどんなインパクトを受け、何を受容するのかはいささか次元の違う問題ではとまた考えてしまうのでした。やはり私流の観念論なのでしょうか。
いや、いい音が必要ないとか、それを忌避するわけではありません。今回聴かせてもらった音はそれ自身感動ものでした。この装置を提供されたMさんには感謝と感嘆の念すらおぼえています。
CDプレイヤーなど
音楽っていったい何なんでしょう。私たちの聴覚に与えられるひとまとまりの音とそれがもたらす印象で終わりではないような気がします。そこで与えられたものを原-印象とし、それにある種の加工が施され、それが最終的に受容されるような気もします。
音楽は時間芸術ですから、それらの受容と加工という作業が同一の時間内でオーバーラップして行われるためその辺がわかりにくくなっているようにも思います。
まあ、ごちゃごちゃ言わず、音楽はいい装置でいい音で聴いた方がいいのは事実です。
いい音でいい音楽を聴く、それは確実にある種のカタルシスです。
音についてのお考えはいろいろあるようですね。
私も揺らぎの内にあります。音楽を音の集合に還元してしまうと、ではあのチューニングの悪い環境下で流される音楽に感動していた私は何なのだということになってしまいますし、かといって音楽から音を取り去ってなおある音楽というのは完全な観念論であろうと思います。
相対的にはよりよい音を希求しながら、音の善し悪しにのみ足を取られることなく、それらの音の表示が内包するものへと開かれてあるというのが音楽の受容の理想型でしょうね。
まあ、私の論議の内にはチューニングが悪く、とぎれとぎれのラジオで音楽を聴かざるをえなかったという過去へのルサンチマンのようなものがありますから、公平性を欠くのでしょうね。
音楽は大好きです。
(場当たり的なカラオケだけは、かないません。真面目に練習している人なら、下手でも聴けます。)
クラシック・ジャズ・ロック・フォーク・童謡・演歌・各国民謡・・・なんでもありです。
マシな「音」で聴きたいとは思います。家のステレオは、廉価版のBOSEです。
真空管の切ない音は、かなり好きです。お金があれば、買っているかもしれません。
その視点でなら、昔のラジオの切なさは、最高の音だとも言えそうです。
友人に、セミプロのジャズマンがいます。
彼も私も、臨場感のあるライブ音楽に勝るものはないと考えています。
これは、音楽に限った話ではないかもしれません。
電気機器は、近代科学がもたらしてくれた有難い代用品ではあります。
CDより、針を落として聞くLPの方が好きです。
あまりにもクリアな音質は、かえって情をそぐような気のする昔猫です。
それより何より、柳や冬芽をびっしりとつけた木蓮の美しさに圧倒されました。樹はえらいなあ。もう春の用意をして凛と立っているのですから。
民主主義を支えたのは、アメリカでも同じようですが、機械はともかく、所詮は使い方次第、という
ことだと思います。
最近は、若者のオーディオ離れ、車離れが
進んできて、これらの機械を部品で組み立てるとかは、一切やらなくなったそうです。
かつては、オーディオの組み立てなど、
男の嗜みだっと思いますし、男同士の車談話など
当たり前だったと思いますが、いまでは、
昔話です。
そのかわり、パソコンや携帯、ワンセグは
どんどん普及しています。
実は、私も、オーディオには全く関心がありません。
機械の音で、いい音うんぬんを語るのは
ナンセンスだと思うからです。
車もオーディオも、店で安売りの既製品を
買ってきて、古くなったら捨てればいい、
というのが、標準的な意識のようで、
私も同じです。