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【映画鑑賞】失われゆくものへのオマージュ『さくらんぼ 母ときた道』

2009-01-25 10:56:30 | 映画評論
 映画の好きな方にはこの題名でピンと来るものがあるはずです。そう、あの『初恋のきた道』(監督:張芸謀) のトーンと同じですね。それもそのはず、両作品とも鮑 十という人の脚本という点で共通しているのです。これは鮑 十が実話をもとに脚本化したものだそうです。

 ただし、監督は違います。今やハリウッドのスペクタクルに取り込まれてしまった張芸謀ではなく、同じ張でも張 加具という人です。
 しかし、脚本の力は大きいようで、かつての『初恋のきた道』と同様、中国の美しい農村風景(雲南省の棚田のある風景)のもとで無垢で無償の愛が展開されます。ただし、『初恋のきた道』が男女の愛であったのに対し、これは母娘の愛です。

 

 母親に知的障害がある女性を持ってきたのは無垢を描くという意味で少々ずるい感じがしますが、実話に基づくとあれば致し方ありません。
 ストーリー展開は述べませんが、母は無垢であるだけ世間の規範に収まり切れない愛情を娘に注ぎます。が、その過剰さが時として娘にとっては疎ましかったり、恥ずべきことであったりします。
 そこにやりきれない切なさがあります。しかしそれも、家族共同体の固い絆で乗り越えられるのですが・・。
 なお、この映画で母を演じた苗圃(ミャオ・プゥ)は、ほとんど言葉もなく、表情と仕草のみで喜怒哀楽を表現するというその汚れ役を見事に演じ切って、その年の主演女優賞に輝いています。


 『初恋のきた道』もそうでしたが、『山の郵便配達』、『故郷の香り』(いずれも監督は霍建起)、『小さな中国のお針子』(監督:戴思杰)などなど、いずれも農村や山村から離脱した人の回想録として展開されるものが多いのが中国映画のひとつの特色ともいえます。
 それは多分、日本の昭和30年代と同様、高度成長の中で急速に都市化が進行する中でゲマインシャフト(情念的結合)なアナログ社会が解体され、ゲゼルシャフト(利益共同体的)なデジタル社会に取って代わられようとするその落差を描かれざるをえないところからきているのだろうと思います。
 この『さくらんぼ 母ときた道』も、村落共同体から離脱し医者になった娘の回想として語られています。

 

 しかし、これらを中国映画の特色としてしまうのもいささか性急かも知れません。
 シシリー島の小さな映画館を揺籃として育った少年の回想録、『ニュー・シネマ・パラダイス』(監督:ジュゼッペ・トルナトーレ)もそうした失われた共同体へのオマージュであったと思います。
 また、日本の小津作品も角度を変え、失われるものの視点からそれらを描いていたように思います。

 映画を観てからいろいろ考えるのが好きです。
 考える余地を残してくれない映画は苦手です。






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