久々に名古屋へ出る。
まず映画館へ足を運ぶ。
ほんとうは、ケン・ローチの『天使の分け前』を観たかったのだが、それを観ていると夕方からのコンサートに間に合わないので、『カルテット!人生のオペラハウス』にする。
映像は美しく、全編に音楽が流れているのは嬉しい限りだが、予告編で予想したとおりの展開で、やや予定調和的であるように思った。
熱田神宮 西門
しかし、ここに登場する老人たちのさまざまな有り様は私の年代に共通するものがあり、その状況に思わず自分を投影してしまって、喜劇的な場面でもいくぶんシニカルな笑いにならざるをえなかった。
ダスティ・ホフマンの第一回目の監督作品であるというのも売りの一つだが、この映画からだけでは彼の監督としての力量は判断できないように思う。
最後の肝心のカルテットは歌われず、いきなりカーテンコールでそれを示唆するのはいくぶん残念だったが、あの老優たちに歌わせるには、口パクにしても無理で嘘っぽいものがあるから仕方がないだろう。
エンドロールにオーバーラップして、映画に登場している実在の老音楽家たちの映像と、若き日のそれとが対比する形で出てくるのは面白い。
鬱蒼とした熱田の森
その後、喫茶店で粘って読書。
頃合いを見てコンサート会場の熱田文化小劇場へ。
地下鉄の神宮西駅で降り、かなり遠回りになるが西門から入り、熱田の森を横切る経路で名鉄の神宮前駅の近くに出て、神宮前商店街沿いに熱田区役所と併設されている会場に向かう。
もう半世紀も前、この付近で家庭教師のバイトをしていたことがあったが、その頃は随分賑わっていた神宮前商店街の現状は惨憺たるもので、名鉄からJRの駅に至る間で生きている商店は2割に満たないだろう。残っているそれも、なんとなく行きがかり上で残っているにすぎない感がする。
児玉麻里 ピアノ・リサイタル。
曲目は以下のとおり。
モーツァルト:自動オルガンのための幻想曲 ヘ短調 K.608
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第9番ニ長調 K.311
J.S.バッハ:イギリス組曲 第2番イ短調 BWV807
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第14番嬰ハ短調 op.27(月光)
アンコール ベートーヴェン:エリーゼのために WoO59
神宮前商店街にて
私としては、最初のモーツアルトの曲とバッハのものがよかったように思った。
最初のものはケッヘル番号からいっても、最晩年も最晩年、亡くなる年の作品であり、一応、CDももっているのだが、いままでは聞き流していたようで、改めて曲の良さを知った。
モーツァルト自身はそんな機械のためなんてイヤだといって渋々作ったらしいのだが、それにしては対位法をしっかり身につけてからの曲で、聴いていてもうんと奥行きがある。また、そのせいか、ところどころにバッハを思わせる部分もある。
神宮前商店街の裏側
バッハの曲の面白さは言わずもがなであるが、今回、奏者の指の動きがよく見える位置にいたせいもあって、ピアノを弾くの「弾」は、同時に鍵盤の上で指が弾んだり弾けるという意味もあるように思った。それだからこそ、弦楽器と違って不連続な音の打楽器であるにも関わらず、ひとつひとつの音を明快にしながらもその音色に連続を醸しだすという「不連続の連続」ともいっていい音楽が生まれるのだろう。
JR熱田駅構内を望む
最後の月光は、ベートーヴェンの全曲録音を手がけているだけあって自家薬籠中のものといえるが、気のせいか出だしはなんとなくやや淀んだ感があった。しかし、曲が進み第三楽章に差し掛かる頃には、舞台上のピアノ全体が咆哮するかのように迫るものがあって、心地よく曲は終わった。
この曲の通称である「月光」はベートヴェンのあずかり知らぬところで事後的に付けられたのだそうだが、それが相当するのは第一楽章のみで全体としては「熱情」に劣らないほどパッショネイトな曲だと改めて思った。
昼間の暖かさに比べて夜は冷え込んで、帰途の岐阜駅からの自転車はやや寒いほどであった。
あちこちウロウロしたせいで、携帯の歩数計はもう少しで1万歩という数字を示していた。
まず映画館へ足を運ぶ。
ほんとうは、ケン・ローチの『天使の分け前』を観たかったのだが、それを観ていると夕方からのコンサートに間に合わないので、『カルテット!人生のオペラハウス』にする。
映像は美しく、全編に音楽が流れているのは嬉しい限りだが、予告編で予想したとおりの展開で、やや予定調和的であるように思った。
熱田神宮 西門
しかし、ここに登場する老人たちのさまざまな有り様は私の年代に共通するものがあり、その状況に思わず自分を投影してしまって、喜劇的な場面でもいくぶんシニカルな笑いにならざるをえなかった。
ダスティ・ホフマンの第一回目の監督作品であるというのも売りの一つだが、この映画からだけでは彼の監督としての力量は判断できないように思う。
最後の肝心のカルテットは歌われず、いきなりカーテンコールでそれを示唆するのはいくぶん残念だったが、あの老優たちに歌わせるには、口パクにしても無理で嘘っぽいものがあるから仕方がないだろう。
エンドロールにオーバーラップして、映画に登場している実在の老音楽家たちの映像と、若き日のそれとが対比する形で出てくるのは面白い。
鬱蒼とした熱田の森
その後、喫茶店で粘って読書。
頃合いを見てコンサート会場の熱田文化小劇場へ。
地下鉄の神宮西駅で降り、かなり遠回りになるが西門から入り、熱田の森を横切る経路で名鉄の神宮前駅の近くに出て、神宮前商店街沿いに熱田区役所と併設されている会場に向かう。
もう半世紀も前、この付近で家庭教師のバイトをしていたことがあったが、その頃は随分賑わっていた神宮前商店街の現状は惨憺たるもので、名鉄からJRの駅に至る間で生きている商店は2割に満たないだろう。残っているそれも、なんとなく行きがかり上で残っているにすぎない感がする。
児玉麻里 ピアノ・リサイタル。
曲目は以下のとおり。
モーツァルト:自動オルガンのための幻想曲 ヘ短調 K.608
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第9番ニ長調 K.311
J.S.バッハ:イギリス組曲 第2番イ短調 BWV807
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第14番嬰ハ短調 op.27(月光)
アンコール ベートーヴェン:エリーゼのために WoO59
神宮前商店街にて
私としては、最初のモーツアルトの曲とバッハのものがよかったように思った。
最初のものはケッヘル番号からいっても、最晩年も最晩年、亡くなる年の作品であり、一応、CDももっているのだが、いままでは聞き流していたようで、改めて曲の良さを知った。
モーツァルト自身はそんな機械のためなんてイヤだといって渋々作ったらしいのだが、それにしては対位法をしっかり身につけてからの曲で、聴いていてもうんと奥行きがある。また、そのせいか、ところどころにバッハを思わせる部分もある。
神宮前商店街の裏側
バッハの曲の面白さは言わずもがなであるが、今回、奏者の指の動きがよく見える位置にいたせいもあって、ピアノを弾くの「弾」は、同時に鍵盤の上で指が弾んだり弾けるという意味もあるように思った。それだからこそ、弦楽器と違って不連続な音の打楽器であるにも関わらず、ひとつひとつの音を明快にしながらもその音色に連続を醸しだすという「不連続の連続」ともいっていい音楽が生まれるのだろう。
JR熱田駅構内を望む
最後の月光は、ベートーヴェンの全曲録音を手がけているだけあって自家薬籠中のものといえるが、気のせいか出だしはなんとなくやや淀んだ感があった。しかし、曲が進み第三楽章に差し掛かる頃には、舞台上のピアノ全体が咆哮するかのように迫るものがあって、心地よく曲は終わった。
この曲の通称である「月光」はベートヴェンのあずかり知らぬところで事後的に付けられたのだそうだが、それが相当するのは第一楽章のみで全体としては「熱情」に劣らないほどパッショネイトな曲だと改めて思った。
昼間の暖かさに比べて夜は冷え込んで、帰途の岐阜駅からの自転車はやや寒いほどであった。
あちこちウロウロしたせいで、携帯の歩数計はもう少しで1万歩という数字を示していた。
心に良い取り合わせですね。
わたしも、土いじりと音楽、読書などに浸っていたいです。
早くそうなれますよう祈っています。