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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の世界・または私の檻

2008-07-23 04:17:55 | よしなしごと
 風景というものが、歴史的に作られてきたものだということは今日、常識となっています。
 それは、その風景そのものが変わってきたというだけではなく、それを受け止める私たち自身の感じ方そのものが変わってきたことをも意味しています。
 端的に言って、100年前の風景、1000年前の風景が今とは全く違うように、それを見る私たちのまなざしも全く違うものになっているということです。

 
      私の部屋の南側の窓から 左はムクゲ 右はクワ

 これは時間軸に沿った変化ですが、それは同時に、空間的な広がりにおいてもいえそうです。
 つまり、どこでどんな風景と接してるかは、私たちのまなざしや、ひいてはものの考え方をも支配しているかも知れません。
 事実、これをふくらませて『風土論』という膨大な書をものにした、和辻哲郎という哲学者がいます。

 
           窓の北側 手前は休耕田

 しかしここでは、そんな小難しいことを論じようというのではありません。
 もっと身近な問題として、私が毎日見て暮らしている風景が、私の偏狭なものの見方や、にもかかわらず、この愛すべき性格(自分でいうな!)とどう関連しているかを皆さんに診断していただこうということです。

 見ていただいてお分かりのように、街中でもなく、かといって全くの田舎でもなく、私の表現に依れば、街が次第に田園地帯を浸食して来たのだが、高度成長の終焉によりその勢いが鈍ったままに留まった「斑(まだら)な地帯」ということになります。

 
      北側をやや東に振ってバス停付近を示したもの
 
 これは、Googleのマップで、特にその航空写真で見るとよく分かります。
 岐阜市の南部へとスクロールしてくると、私の家の辺りから急に市街地の様相が希薄になるのです。
 主要な道路沿いには人家などがありますが、その後ろはもう、畑や田圃です。
 まさにそれらが斑模様をなしているのです。

 
         別の日に撮した篠突く雨に佇む女性
        思わずそこへ行って抱きしめたくなった


 従ってここからきわめて安直に結論するなら、私の思考や性格の中途半端さはこの都市とも田園ともつかぬ斑ゆえともいえます。
 しかしながらこの斑は、マージナルがゆえに都市と田園の双方に向かって開かれていて、それだけ私の規定されざる(別の視点からいえば曖昧な)思考を可能にしているともいえます。

 え?そうではなくて、その斑さこそ、お前の「斑ボケ」を可能にしているですって?
 ほっといてください!





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