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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【お登りと岐阜市街、そして7・9】

2007-11-20 14:12:40 | 想い出を掘り起こす
   

 岐阜駅近辺に「岐阜シティタワー43」という文字通り43階建(約160メートル)の高層ビルが出来た。岐阜いちばんの高層建造物である。 
 「行って見よー」というので最上階まで登った。
 以下は、そこから撮った写真である。

 
       岐阜市街東部。条件がいいと御岳が見える
 
        岐阜市北部を見る。上の帯状は長良川
 
       岐阜の西部。右上は長良川。左上に伊吹山
 
         眼下のJR岐阜駅。整備の工事中

 これらを眺めていて、私はとんでもないことを思い出してしまったのだった。
 悪夢のようなあの日々のことを。
 それは、1945年(昭・20)7月9日の岐阜大空襲直後の岐阜市街地の映像である。
 この空襲は、死者約900人、被害を受けた家屋20,000戸、被災者10万人(市民の約60%)という被害をもたらすものであった。

  
      炎上する岐阜駅。列車も燃えている

 正直に言って、私はその頃、大垣郊外に疎開していて直接空襲を体験してはいない。しかし、空襲警報で避難した箇所から、東の空が真っ赤に染まるのを見、「ああ、岐阜が燃えている!」という大人たちの詠嘆を聞いたことは記憶にある(それからしばらくして、私の疎開先の掘っ立て小屋も少し離れた軍需工場の空襲の余波で半焼の目にあった)。

  
         徹明町交差点付近
 
 1946、7年(昭21、2年)頃だろうか、母が岐阜の知り合いの安否を尋ねるというのに同行した私は、幾分片付けられているとはいえ、あちこちの焼け跡にうち捨てられた残骸を目撃している。なんか、きな臭い匂いまで残っていたようにすら記憶している。
 前半の平和な写真の後に、これら後半のモノクロ写真をを載せるのには幾分の違和感と飛躍がある。
 私に、それを決意させたのは、たまたま隣り合わせていた老婦人の次のような言葉であった。

  
    後に「柳ヶ瀬ブルース」で歌われた柳ヶ瀬
 
 「空襲の後、岐阜駅から丸物(当時の百貨店)や十六(銀行、今も存続)がはっきり見えたもんね」
 これは、当時の岐阜市に於いては、鉄筋の建物は以上の他に市役所、県庁ぐらいしかなかったことを示している。もっともそれらの建物も、単に残骸を晒すに過ぎなかったのだが・・。
 老婦人の言葉は続く。
 「いまごろほんなこといっても、若い人には笑われるだけかも知れんけど・・」
 それを聞いて、私は史料を探し、その折りのありようを再現しようと思い立った。

  
         爆撃ひと月前の岐阜市街 1945.6.9

 
       爆撃直後の岐阜市街(前図を90度横に)

 それがこのモノクロの写真群である。
 コメントは敢えて言うまい。
 ただひと言、これは合成でもなんでもなく、当時の庶民が体験した実像であると。


被災写真など資料は、「岐阜平和資料室」、「空襲、戦災を記録する全国会議」などのホームページから借用致しました。










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5 コメント

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Unknown (游氣)
2007-11-20 18:45:14
俯瞰すると美しい眺望や異次元の世界を観たような驚きから、その下で現実に営まれているはずの様々な日常やその連続である人生の存在を忘れてしまいます。
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Unknown (冠山)
2007-11-20 21:36:57
一度は上がってみたいと思っていましたので堪能しました。ありがとう。岐阜駅頭から丸物が見えたという老婦人はぼくと同世代。呟きに、じいぃんときます。ぼくも、1945年8月末、復員して駅頭に立ち同じ光景を見ました。小学校で好きだった女の子も名古屋の軍需工場で焼かれ追われて帰る途次、丸物が見えたねと云います。そうなんでした。… 
それでね、六文銭さん。あのとき、ぼくも彼女も帰る故郷があったのです。そこで思考停止。徳山ダム堤高は161米といいます。ビルと同じ高さです。
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Unknown (サンコ)
2007-11-21 08:53:03
私たちは、復興を遂げたのか、それとも、何か別の世界を作ってしまったのか。私は、三重県の津に家があり、当時の安濃村へ疎開をしていました。小高い所から、父や兄が居るはずの、津市が爆撃で燃え上がるのを、夢のように眺めておりました。
 6歳の記憶です。
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Unknown (冠山)
2007-11-21 09:34:02
村は廃墟と化したか。いや、あれは廃墟ではない。廃墟には痕跡があるが、あそこは時間も空間も全く抹殺されてない。あげた手をのばすところがない。数年前、歌をつくれと云われまして、文字を並べました。冬に入るころでした。… 頂は冬のけはいすこの年も/祖霊さまよふ山脈はるか… 故郷について何か綴ろうとするばそれは生涯のアポリアとなる。
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Unknown (六文錢)
2007-11-22 00:31:17
 皆さん コメントありがとうございました。

 冠山さんが、写真ではなくその実状をご覧になっていること、また、その折りは帰るところとしてあった徳山村が今や水の底であること、その徳山を沈めたダムの高さが、奇しくも私が登ったビルの高さと同じであること(160メートル余)などにある種の感慨を覚えました。

 廃墟そして復興から、一次産業を踏みにじり額に汗する実業そのものをないがしろにした虚業や投機がはびこる現代へという歴史が、それらのエピソードに現れているように思います。

 その意味では、游氣さんのお感じになった感慨もそうしたものが下敷きになっていると思いますし、私と同時代を生きたサンコさんの追憶とその後も、こうした過程のうちにあったろうと思うのです。
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