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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

明日への決意と可哀想なスミレ

2014-04-03 22:27:31 | 写真とおしゃべり
 ここ2、3日おかしい。
 自分のほうからの能動的な行動がほとんどできていないのだ。
 いろいろ自分で考えてみたのだが、やはりある種の「燃え尽き症候群」に属するのかもしれない。

 もちろん「燃え尽きる」ほどの大したことをしてきたわけではない。
 昨年末、そしてこの3月と、東京、名古屋で行ってきたミニコミ誌への連載が終わったのがひとつだ。この連載、一方的に自分が書くというよりも、投稿者や読者との応答のようなものだったのでけっこう楽しかった。
 終わってみると、自分が考えていたほど軽い仕事ではなかったのだということが改めて分かる。

          

 もうひとつは、関わってきている同人誌の次号分の原稿を書き上げたことにもよる。
 私の場合は、その棲み分けからいって評論的なものを書いているが、なにせ専門領域のある学者と違って、すでに蓄積された知識のなかから切り分けて何かをホイと出すわけにはゆかない。
 だから、次号に目標を定めて懸命に勉強をする。そして、学生がその期のレポートを提出するような気持ちで必死に書く。
 だからそれを書き上げるということはひとつの区切りを意味する。

 まあ、それらの時期が重なったゆえの虚脱感かもしれない。
 個別に嫌なこともあったが、そんなものは生きていれば必ず遭遇するようなことで、それを引きずっていてはこの先(何年あるかはしらないが)生きては行けない。

          

 ある種の「燃え尽き症候群」の自覚は、同時に、これからはまさに、何かに促されるのではなく自分で自分を律して生きてゆかねばならないという「老いの本番」を迎えたことを意味する。
 だから、この間のだらしなさを、外部の何かのせいにして、このままで過ごすわけにはゆかないのだ。

 昨夜、それを自分に言い聞かせた。そして、今日(3日)はブラブラしていることを許すとして、明日、4日からはシャキッとして図書館へ行って新しく取り組むテーマに則した書を検索してこようと思う。もちろんその取っ掛かりになるものを借りてくるつもりだが。

          
 
 それで、今日一日のブラブラの報告。
 午前中は町内会の班長として、回覧板を作成し、それを回し始めるとともに、担当地域の各戸に広報を配って歩いた。
 
 その後、昨年見つけた私の聖地へつくしをとりに。
 ああ、しかし、2、3日遅かった。
 ほとんど穂の部分が開いてしまっている。
 しかし、その部分のほろ苦さもつくしの味なら、茎の部分の感触もつくしの味、今年はこれで我慢することにする。
 袴を取って綺麗にしたらなんとか見られるようになった。

          

 つくしを取りに行ったところで、スミレの花を見つけた。
 この花を見るとモーツァルトの歌曲「スミレ」を思い出す。
 これはモーツァルトが曲を付けた唯一のゲーテの詩で、最後には野のスミレが愛する女の子に踏まれてしまい、しかも、彼女に踏まれたことを喜んで死んでゆくというのだから、ずいぶんマゾヒスティックな詩だと思う。
 しかし、その歌曲は澄み渡っていてあくまでも美しい。

   ・・・・ああ、それなのに! 少女はやってきたが、
   そのすみれには目もくれないで、
   あわれなすみれを踏みつけてしまった!
   すみれはつぶれ、息絶えたが、それでも嬉しがっていた
   ともあれ、自分はあのひとのせいで
   あのひとに踏まれて
   死ぬんだから と!

   かわいそうなすみれよ!
   それは本当にかわいいすみれだった。

               (西野茂雄:訳)

  https://www.youtube.com/watch?v=PAiBT2k3eUI
    キャスリーン・バトル(ソプラノ)

          

 いずれにしても、明日からはまた気を取り直して頑張ろう。
 「ぐ~ち~もいわずに、女房の小春~」
 え?わかんない?Wikiで村田英雄、または『王将』をどうぞ。
 『王将』ったって、餃子屋さんの方じゃあないよ。
 そういえば、あそこの社長の射殺事件ってどうなったんだろう。





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2 コメント

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一度でいいから (只今)
2014-04-04 16:58:05
 一度でいいから句座を共にしたかったのは、鶴見俊輔、亀山巌さんの僚友だった多田道太郎さん。
 その多田さんの、「すみれ」と「土筆」の句の評。

 「鼻紙の間にしおるるすみれかな  園女」
=テイッシュでは気分がでない。やっぱり「鼻紙」でなくちゃ。はなかみに軽くはさまれて萎れるその風情。愛すべし。掬すべし。

 「瓦屑起こせばほめく土筆かな   室生犀星」
=「ほめく」というのは春情のきざすことでもあろう。「瓦屑の下でじっとり押しひしがれていたつくしが、いきなり春に目ざめたかわいさ。瓦屑ということばにかえって詩情あり。春情はがらくたのなかで目ざめるのである。たとえば満員電車の中で。=
返信する
満員電車の中の土筆 (六文錢)
2014-04-05 00:55:23
 句評というのもその道の通人の手にかかると面白いものですね。
 とくに二句目、瓦屑と満員電車を対比させることによって土筆の意味合いが完全に多重化されていて、思わず吹き出しそうになりました。
 満員電車での春情からはかなり遠くへきてしまったのですが、身に覚えがあって面白い。
返信する

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