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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

悲劇を『ロミオとジュリエット』に終わらせてはいけない。

2011-05-25 02:53:03 | 映画評論
 聞くところによれば、フィンランドという国は結構映画を沢山作っているのですが、日本での公開は少ないのだとのことです。その理由は、ハリウッド様式の豪華絢爛なものがなく、低予算のこじんまりしたものが多いからだそうです。

 そういえば私も、アキ・カウリスマキ監督の作品を数本観たぐらいです。また最近では、クラウス・ハロ監督の『ヤコブへの手紙』という佳作が来たようですが、ちょうど色々バタバタしている折で見過ごしてしまいました。

               

 で、この『4月の涙』ですが冒頭からグイグイ惹き込まれます。
 舞台は1918年、ロシア革命の影響でロシア帝国から独立を勝ちとったものの、その後の主権を争う白衛軍と赤衛軍の激しい内戦の末期です。始めは優勢であった赤衛軍は、市民の寄せ集めの軍事組織の弱点を持っていて、正規軍を主体にした白衛軍に次第に追い詰められてゆきます。 

 この映画も冒頭はそんなある日、赤衛軍の女性部隊が白衛軍に追い詰められ、銃撃戦の結果全員降伏という場面から始まります。
 しかし、彼女たちを待っていたのは捕虜としての扱いや、法に基づく裁判などではなく、何人にも及ぶ兵士たちからの凄まじい陵辱の末、見せかけの解放に従った女性兵士全員の殺戮でした。

 彼女たちの死を見届けるべく残された若い准士官アーロと、奇跡的に助かった女性軍リーダーのミーナの出会い、ミーナに公正な裁判を受けさせるべく公正な判事のいる場所まで連行するアーロ、途中無人島へ漂着しそこで何日かを過ごす二人、そしてそこで芽生えた感情…と書いてくると戦場を舞台とした『ロミオとジュリエット』のバリエーションになってしまいますね。

                

 しかし、この物語にさらに厚みを加えるのは、無人島から脱出でき、やっとたどり着いた裁判所のアーロの尊敬する「公正な」判事、エーミルが一筋縄では行かない屈折した存在であったことです。
 ここで私たちは、それまでの赤衛軍と白衛軍という二項対立の図式とは異質な緊張感の中におかれます。

 それによってこのドラマは、どちらが正しいのかとか、結局はヒューマニズムこそが重要なのだといったベタな結論を越えた重みを持つようになります。ちょっときざっぽくいうと、「実存」だとか「ニヒリズム」の分野がこの「純愛物語」を侵食してくるのです。

                

 この映画がベタにならない点は他にもあります。女性兵士ミーナは、自分への陵辱を逆手にとって、いやそれを武器にして男に迫ります。まったくもって極限状況でのたくましさです。
 一方、アーロは純粋で正義を保とうとする青年です。しかし、聖人君子ではありません。誘惑に対してはぎりぎりまで抵抗するものの、やはり折れる点があります。だから、ホッとします。

 途中でも絡んでいた子どもが最後に出てきます。この子は映画を見ていただけば分かりますが、アーロともミーナとも直接の縁はありません。にもかかわらず、やはりこの二人の子どもなのです。
 子供たちは新しく生まれただけ、新しい生を選ぶ余地を持ちます。
 新しく生まれることのみがこの世界を更新する可能性であり、それが歴史であろうと思います。

                

 私たちは、赤衛軍も白衛軍もとっくに相対化されてしまった歴史の末裔です。しかし、そうした事実があったことは記憶すべきでしょうし、相対化されたと思われるそれが、再び回帰する可能性は常にあるのです。
 もちろん問題は、どちらかを選べばいいということではありません。

 最後に、フィンランドの森を始めとする各シーンの絵が、とてもきれいであったことをいい添えます。しばしば用いられる逆光の樹木の映像は、私がまた好んで撮す樹々の表情でした。
 フィンランドの映画はもっと来てもいいですね。


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