六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「リニア・鉄道館」(名古屋市港区金城埠頭)にて

2011-05-23 10:59:44 | 写真とおしゃべり
 一日、「リニア・鉄道館」に遊ぶ。
 「ゆる鉄」の私には詳しいことは分からない。
 ただ、見ているだけで少年のように胸が躍る。
 少年の頃、岐阜駅のすぐ南に住んでいた。
 まだ、東海道線の浜松以西が蒸気機関車だった頃である。
 夜汽車の汽笛が切なかった。
 いつか、あれに乗って旅立つのだと思った。
 あれから六〇年、さして遠くないところでうごめいている。

 *「ゆる鉄」 私の造語。あまりハード・コアではない鉄道ファン。


     「リニア・鉄道館」から伊勢湾岸自動車道を臨む

 
   300X 全国に2編成のみ現存               700系 


        引退した初代新幹線     0系

  
      C62運転席付近                 C57

 
       C57蒸気ドーム             C57釜焚口

 
      機関室つき三等車           同内部 前方が機関室

 
        揃い踏み・1              揃い踏み・2

 
 これは千種区の旧国鉄学校にあったもの           その側面

 
       豆ファンのポーズ               熱心なファン
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6 コメント

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Unknown (Tです。)
2011-05-23 12:13:31
土曜日に六文銭の常連のKさんから電話がありました。6月にボランティアで気仙沼に行くそうです。以前に転勤で通っていた仙台の居酒屋にも寄るとのこと。3年ぶりぐらいに話ましたが、知多半島にまた一緒にのんびり釣りがしたいとしみじみ。記事に関係ない話ですみません。
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Unknown (只今)
2011-05-23 17:47:35
 戦争中は天気予報なるもの存在せず。
 それ故、明日の天気を知る方法は二つ。
 一つは、夕焼けの有る無し。
 二つ目は、汽車の汽笛がどんな大きさで聞こえるかということでした。
 家は中央線から1キロ半離れた赤塚町。汽車に乗れば異国に行ける! いつか行こうと、いつも思っていました。
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Unknown (九条護。)
2011-05-23 22:59:46
これはいいですねえ。私もぜひ行きたい。
初代新幹線の愛きょうのある顔が何とも
可愛いですね。

とはいっても、電車も電気がなければ走らない。

「復興が求められる時に、最も必要な電力を失う発電所停止とは愚かだ。反原発派を勢いづかせてしまって、停止中の原発を再起動するのにまで困難となる。浜岡停止で中部だけでなく、日本中が電力不足になってしまうということに頭が回らない菅は無能だ。」先日のTVで宮崎哲哉氏発言。

以下時事通信より。
中電は、最大電力需要に対する供給余力は7月で4.8%(従来2.0%)に高まる見通しだが、安定供給の目安とされる8~10%の水準にはなお届いていない。
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Unknown (六文錢)
2011-05-23 23:51:37
>Tさん
 Kさんには近くに居ながら、2、3年前の今池祭りでちらっと会ったっきりです。
 名古屋近辺でお会いになる機会があったら、声をかけてください。

>只今さん
 汽笛の天気予報は私も聞いたことがあります。
 ただし、私の場合は駅から100mも離れていなかったのでいつも同じに聞こえました。
 そういえば、最近の列車というのはあまり汽笛を鳴らさないですね。

>九条護。さん
 株主の執念は怖いですね。何でもそこへ結びつけるのですね。
 お気に入りの初代新幹線が走った折、原発はまだありませんでした。また、原発以外の電気でも新幹線は走ります。

 ただし、電気の需給関係が問題であることは否定しません。しかし、「必要は発明の母」です。私は日本人の知恵を信じます。
 
 宮崎哲弥などというチンピラ評論家には何の権威も感じていませんから引用されても無駄です。むしろ、彼のような発言が新たな風評被害であるように思います。狼少年のそれですね。

 節電しましょうね。
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Unknown (Tです。)
2011-05-24 11:24:50
敗戦で焼け野原になった岐阜駅に、父親が勤めていたようですが、うれしそうに焼け野原の中を汽車が走って岐阜駅に来たと話していたことを思い出しました。復興の最初は鉄道などの輸送路が動き出すことなので、象徴的な原動力にもなるのでしょうね。東北新幹線が開通したときに住民の方々がうれしそうに語っていた姿を見て、はじめて父親の気持ちが分かったような気がしました。
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Unknown (六文錢)
2011-05-24 14:02:58
>Tさん
 そうでしたか。
 私はかつて1945年7月9日の岐阜大空襲で炎上した岐阜駅の、たぶん翌朝の写真をこのブログに載せたことがあります。
 お父上はまさにここにいらっしゃったのですね。

 http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=1047327

 復興時インフラの重要な一つに交通、とりわけ大量輸送が可能な鉄道がありますね。ですから、最初に列車の運行を見て感動された当時の国鉄マン、お父上の気持ちがよくわかります。

 岐阜から大垣郊外に疎開していた私と母は、鉄道が回復し、女子どもでも岐阜へ行けるようになったと聞いた翌年始め、早速岐阜の様子を見にゆきました。
 その時に見た風景は、岐阜駅の写真の下の二枚とほぼ同様でした。
 数少ない鉄筋の建物のほかは一面の焼け野原で、これでは当分帰れないねと諦めたものでした。




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