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『恋愛小説』という名の恋愛小説 マルティンとハンナ

2009-11-15 05:33:23 | 書評
 『恋愛小説』という名の恋愛小説です。
 なんかトートロジーの感がしませんか?
 あるいはこれは恋愛小説ではないという人もいるでしょう。
 事実、起承転結があるような恋愛物語とはいささか異なる小説ではあります。

 

 原題は『マルティンとハンナ』だそうです。
 ここまで書くと「な~んだそうか」という方もいらっしゃるでしょうね。
 そうなんです、このマルティンとは20世紀最大の思想家といわれ、ナチスがらみのスキャンダラスな経過を辿りながらも、なおかつ、その後の思想界に消すことの出来ない痕跡を残し、今なお直接・間接に多大な影響を及ぼし続けているあのマルティン・ハイデガーなのです。

 で、ハンナはというと、これまた20世紀思想界に燦然と輝く業績をもつハンナ・アーレントなのです。アーレントはよく、公共性などについて論じますから、政治学者などに分類されがちですが、私はそうではないと思います。
 たとえば、彼女の主著『人間の条件』は、「人間とは何か」という対象認識を論ずるのではなく、私たちが「人間する」とはどういうことかを論じています。
 これはハイデガーの「存在」が、「あるもの=存在者」ではなく、「あるということ」を問うているのと通底するでしょう。

 
               錦秋 馬坂峠・1

 さて、小難しい話はともかく、この二人が恋愛をするのです。マルティンは35歳、ハンナはその教え子で18歳、1924年のことでした。
 問題はこの折、ハイデガーは既婚者でありエルフリーデという妻がいたことでした。いわゆる不倫に相当するのですが、それは発覚することなく数年にわたって続きます(発覚したのは1950年 後述)。

 二人の別れは1930年前後で、ハイデガーのナチへの肩入れなどがあったせいだといわれています。自身ユダヤ人でナチの迫害対象であったハンナにとってはそれは耐え難いことだったと思います。
 ハンナはフランス経由でアメリカへ亡命し、こうして二人は1950年に至るまで逢うことはありませんでした。

 
               錦秋 馬坂峠・2

 小説は1975年、ハンナがもはやもうろうとしたマルティンを最後にその自宅へ見舞う場面です。マルティン自身の不確かな回想も一部挿入されますが、大半はハンナとマルティンの妻・エルフリーデとの対話でありその回想で構成されています。
 その意味ではこの小説は「エルフリーデとハンナ」の方がふさわしいくらいです。

 1950年、20年ぶりにハンナはマルティンを訪れるのですが、その折、ハイデガーの告白もありエルフリーデははじめてハンナとマルティンのことを知るのです。そのいきさつはこの小説の中でも回想シーンとして出てくるのですが、私にとって奇妙奇天烈なのは、その際、マルティンは二人の女性、エルフリーデとハンナに仲良くするようにと説得し、二人が手を握りキスを交わすことを要請するのです。

 ようするにハイデガーは、二人の相互の寛容を求めるわけですが、その実は、二人の女性を愛してしまった自分を許容せよと迫っているわけです。なんか結構、自分勝手な感じがしますね。
 
 
               錦秋 馬坂峠・3

 いささか乱暴ないい方ですが、男が求める女性像にはふたつの類型があるのかも知れません。
 ひとつは、自分がそこへ帰ってやすらぎ、安堵できる母性のような女性像です。
 そしてもうひとつは、自分を日常性のようなところから連れ出してくれるいわば小悪魔のような女性です。
 しばしば男はその双方に引き裂かれることがあります。
 小説や映画にもよくあるのは、小悪魔のような女性に惹かれながら最後には母性のもとへと回帰するというパターンや、あるいは回帰することなく飛び立つ、あるいは飛び立つことも出来ずに破滅するというものなどです。いってみればカルメンにいかれてミカエラを袖にするドン・ホセのようなものです(カルメンと一緒にされてハンナも戸惑っているでしょうね…笑)。

 しかし、多くの場合、女性そのものが母性的なものと小悪魔的なものとに予め分類されているわけではないのだと思います。むしろそれは、男の側の欲望の投影であって、その意味では同一の女性がある男にとっては母性的であり、また別の男にとっては小悪魔的でもあるのだと思うのです。それはまた、女性そのものの欲望の投企にもよるもので、ある時ある対象に対しては母性的であったり、あるいはその他の対象には小悪魔的であったりするのかも知れません。

 マルティンをめぐる関係においては、どちらかというとエルフリーデは母性的であり、ハンナは小悪魔的な役割を担ったのではないでしょうか。すくなくともマルティンにとってはそうであり、また、エルフリーデもそうした役割を自らに課したようです。かくしてマルティンはエルフリーデを手放すわけでもないままに、ハンナに惹かれたのでした。
 ここまではわかるのですが、先に見たように、1950年、その三角関係が明るみになった折、ハンナとエルフリーデを仲良くさせて、自分の分裂した欲望を取り繕おうとするのが解せないのです。敢えてどちらかを選択せよとはいいますまい。しかし、かつて日本などにもあった妻妾同棲のような構図はあまりぞっとしません。

 妻妾同棲は男の力の誇示でもありました。それはいわば財力としてのそれでもありましたが同時に複数の女性をコントロールする能力の表明でもありました。その意味では、ハーレム志向のような男一般の欲望であるのかも知れません。
 むろんマルティンの場合、同棲を主張したのではありませんが、自分を挟んで二人がハグし合い、キスを交わす仲になることを望んでいるわけなのです。

 二人の女性は、かたちの上ではそれに従ったように振る舞います。しかし、ことはそんなに簡単でないことはこの小説にある相互に軋轢を孕んだ心理描写にある通りです。ハンナびいきの私は、彼女ともあろう女性がなぜこんな関係に耐えうるのか、なぜあの1950年の時点でマルティンにきっぱりとその不可能性を指摘しなかったのかとも思います。

 
               錦秋 馬坂峠・4

 今述べたようなことは、小説のなかではあくまでも1975年、三人の最後の出会いの折りの回想シーンにしか過ぎません。しかもそれは、作者、カトリーヌ・クレマンの想像の世界でしかありません。そのためにこの小説の題名もそうですし、その中でも、ハンナ、エルフリーデ、マルティンとそれぞれがファーストネームでしか出てきません。ようするにフィクションであることを強調しているともいえます。

 現実の世界ではどうであったかというと、ハンナ・アーレントが1975年、すでに朦朧としたマルティン・ハイデガーをドイツに訪ね、エルフリーデ・ハイデガーと言葉を交わしたのは事実であり、亡命したまま住みついたアメリカへ帰国したその年の秋に、マルティンに先立って亡くなっています。
 そしてその翌年、ハイデガーもその生涯を閉じたのでした。

 この小説は、このブログにしばしばコメントを頂く「冠山」さんにかつて示唆されたのと、今年末に行う若い人との読書会でアーレントを取り上げ、しかも私が報告者だというのでそのサブ資料として読んだのですが、どこか既視感がぬぐえませんでした。過去の読書ノートを見てその謎が解けました。この小説に先だって書かれた『アーレントとハイデガー』(エルジビェータ・エティンガー)を読んでいたからでした。
 こちらの方はフィクションではなく(小説の方がファーストネームを使用しているのに対し、この書は姓で書かれています)、二人の往復書簡などを追いながらその関係を実証的に追い求めるものでしたが、この小説に先行すること4年ですから、この小説自体がそれを参照したことは十分考えられます。

 この小説を読み終えて、ある誘惑に駆られました。それは、この小説ではその朦朧とした回想が登場し自身も後半に登場するマルティンをただ別室で寝ているのみとして登場させず、女性二人による舞台劇として上演するというものです。
 もちろん私にはそうした脚本を書く能力も、それを舞台にのせる力もありませんが、達者な女優さん二人の掛け合いでそれが実現されたらさぞ面白いだろうと思うのでした。

 ハイデガー(マルティン)やアーレント(ハンナ)の著作や業績など知らずとも読める小説ですが、二人がかって恋人同士であったこと、彼が一時期ナチスに傾いたこと、エルフリーデはそれに先立ってナチスやヒトラーの支援者であったことなどの予備知識があればいっそう理解が深まることでしょう。




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3 コメント

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Unknown (冠山)
2009-11-16 10:47:03
女性二人による舞台劇。いいですね。マルティンをなかにおいてハンナとエルフリーデの角逐の場にどなたがいいか不逞なことを考えさせられました… 六文銭さんのこのごろの情報は、伊那の老子的アナキストの佐多稲子評といい、色恋や嫉妬には大思想家も俗人も違いはない、という論調が目立ちますね。 
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Unknown (六文錢)
2009-11-16 16:03:05
>冠山さん
 
 >>色恋や嫉妬には大思想家も俗人も違いはない
 というのは基本的にはそうでしょうね。
 
 ただし、私のような俗人との違いは、それらをエネルギーとして芸術や学問に昇華せしめることが出来るかどうかでしょう。
 私などはそれらに押しつぶされそうです。 
返信する
Unknown (冠山)
2009-11-16 23:07:43
エネルギーの昇華、そうですね。佐多さんは、寂聴さんが、「灰色の午後」の時代にちょっと関心を示したら、すかさすご自分で、ご自分の時代を書かれて示したそうですね。当時55歳… 六文銭さんよりちょっと?お若かったですか。ハンナに迫ったカトリーヌ・クレマンさんは60歳で、この方もですか。でも、ことは年齢の問題ではないでしよう。六文銭さんが押しつぶされるとは、とても考えられないです。
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