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映画『万引き家族』と「カゾクノカタチ」について

2018-07-20 11:50:01 | 映画評論
 遅ればせながら是枝監督の「万引き家族」を観た。
 この人の作品はほぼ10本、すべて劇場で観てきた。そしてそのそれぞれが面白かった。ドキュメンタリー出身もあってか、その演出にあたっては物語の起承転結を出演者にあらかじめ伝えることはせず、そのシーンごとのシチュエーションのみを提示し、ディティールはその演者に任せるという。そのせいにもあってか、不自然なカット割りなどもなく淡々と進みながら、にもかかわらずそこには確実にひとつのドラマが刻まれてゆく。

             

 私が観たうちで、「誰も知らない」、「歩いても歩いても」、「奇跡」、「そして父になる」、「海街diary」などは家族のカタチを問うという点で共通点をもっていたように思う。
 そして今回の「万引き家族」は最もドラスティックというかラディカルにそれを取り上げてみせた。

 一つの極には、血縁によるいわゆる「自然的な家族」というものがある。伝統的な家族はこれが主であろう。
 そして一方には、人為的、事後的な「構成された家族」がある。ようするに、子どもができないために養子縁組をするとか、家督の相続のために血縁以外のものを迎え入れるといった家族である。
 ちなみに私は、父母の顔を知らないままにいたところを、子どもに恵まれない養父母にひきとられ育った経歴をもつので、家族=血縁にはもとより相対的な距離を保ってきた。

          

 以上観てきた家族のカタチであるが、これまでの家族観からいえば、「構成された家族」は、血縁による「自然的な家族」の不全を補うためのあくまでも例外的で消極的な存在でしかなかった。
 先に述べたこの映画のドラスティックにしてラディカルな点は、そうした「自然的な家族」と「構成された家族」との差異、そこにある優劣、主客の関係を徹底的に問い、極めて意識的に生み出された「人為的家族」を正面に打ち立ててみせたことである。

          

 もちろん、そうした「人為的家族」は現行の法体系の外にあるものである。だから彼らは、公の場で権利を行使することができないばかりか、そこから逃避しなければならない。
 子どもたちは学校へ行けないし、家族全員が市民的保障の外にいる。万引きもそれが故のたつきの道といえよう。
 そして、当然のこととしてその存在自体はつねに極めて危うい。

          

 映画の後半、その危うさが露呈し、「人為的家族」は解体されるであろう。その構成員は元の鞘へ、虐待されていた子は元の家族へ、パチンコ屋の駐車場に放置されていた子は施設に、法に触れた者たちは収監され刑期に服することになるだろう。
 しかし、そのことによって誰が一層幸せになれたであろうか。私たちはそれに先立って、危ういながらもじゃれあうようにして暮らしていた6人のヴィヴィットなありようを知ってしまっている。だからその落差はかえって痛々しい。
 虐待家族へ戻された女の子の一人ぼっちの映像が改めて私たちに問いかける。カゾクトハナニカ?

          

 流布している映画評などでは、この映画は現実の日本の福祉などの欠陥を撃つものだといわれていて、監督自身も映画の契機となったのは、亡くなった親の年金をもらい続ける子の話との関連であったとそれを肯定するような発言もしているようだ。

 しかし、この映画の射程はもっと遠くへ至っているように思う。問題は家族のカタチなのだ。
 敗戦後の家父長制の衰退、1980年代のニュー・ファミリーの登場などなどによって、家族のカタチは変わってきたといわれる。しかし、それらの変化も、所詮は血縁をもとにした範囲内での機能的な変化にしか過ぎなかった。

          

 現今の変化はそれにとどまらないだろう。ジェンダー問題やLGBTの権利拡張に伴い、これまでの血縁を中心とした子をなすための装置としての家族のカタチが劇的に変化しようとしている。だから、この映画のような「人為的家族」は今後、決して例外的なものではなくなるだろう。
 
 もちろん、血縁の問題は解消するわけでもないし、解消すべきだといっているわけではない。かくいう私自身も、すでに述べたように、先代との間には血縁はないが、子どもたちとの間には血縁があり、それが故の関係は厳然としてある。

          
 
 だから血縁がどうこうということではなく、それをも含め、ということはそれ以外も含め、ともに複数の人間が共存してゆく家族のカタチについては、いまや自明のパターンなどはないのであって、それを構成しようとする人たちの新たな選択が必要なのかもしれない。

 たとえ「人為的な家族」の「模擬」ではありながらも、そこで生き生きと瞳を輝かせていたのをすでにみてしまっている私たちが、虐待家族に戻されたその少女の孤独な佇まいに暗澹としているまさにその瞬間に映画は幕を閉じる。切ない!

【おまけ】リリー・フランキーと安藤サクラのそうめんを食いながらの濡れ場はほっこりと美しかった。

 

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2 コメント

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家族 (漂着者)
2018-07-20 14:19:57

日本の常識からすればありえない家族のイメージが、
観ているうちに「この家族のどこがいけないの」と思えてきますね。
むしろ共感さえ覚えます。
ずっと家族を問い続けてきた是枝監督が、ここまで来たかという感じですね。
ところで私が今いちばん好きな女優は安藤サクラです。
彼女の演技もすごく評価されたようですが、
個人的には「かぞくのくに」の彼女の方が好きです。
なんとなくですが。

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安藤サクラ (六文銭)
2018-07-20 14:45:15
 この映画につけられたコメントには、こうした家族の存在こそ日本の恥部で、したがってこんな映画は云々という頓珍漢なものが少なからずあります。なかにはKOREEDAはコリアに通じていて、したがってこれは在日の犯罪者集団の映画だと決めつけるまさにピントの狂った色眼鏡のものさえあります。
 そんななか、「この家族のどこがいけないの」はとても健全な反応に思えます。
 安藤サクラの「かぞくのくに」、たしかに良かったですね。それまでも彼女の存在は知っていましたが、意識して観るようになったのはそれからです。
 その後の「百円の恋」のまさに身体をかけた演技も素敵でした。
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